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”きょうだい児”としての自分の思いや考えを伝えたくて、弁護士に
課題はいろいろとありますが、もう迷わず、シンプルに
5歳できょうだい児に
私が“きょうだい児”、”聞こえるお姉ちゃん”になったのは、3歳下の弟の耳が聞こえないとわかった5歳の時でした。2人姉弟です。
迷走しながら29歳で弁護士に
私が迷走しながらも29歳で弁護士になったのは、やはり、子どもの頃から「”きょうだい児”としての自分の思いや考えを世に伝えたい」という気持ちをどこかに持っていたからだと思います。
「“弁護士”である前に“きょうだい児”」
それが私の原点です。自分の迷い、壁、課題を感じながら体当たりの数年間でしたが、最近、少しずつですが、講演やメディアなどでも、”きょうだい児・者”として発言の場をいただけるようになり、ようやく出発点に立てたと感じています。
今回は、自分の体験に基づき、子どもの頃の私に伝えるつもりで、「~周囲の期待と自分の進路・職業選択~」についてお話させていただきたいと思います。
※体験や考え方、思いはひとりひとり違います。お読みくださった方にもしひとつでも参考になることがあれば幸いです。
プロフィール詳細、著書、主なメディア掲載、講演先、連絡先など
弟
お姉ちゃんらしくなく、遊びもけんかも本気
私と弟は遊びもけんかも本気で”きょうだいは対等”だと強く意識してきました。
「お姉ちゃんは聞こえるのだから弟の分も頑張れ、助けてあげて」という周囲には、励ましなのはわかるのですが、「私は私の分、弟は弟の分しかなくて、誰もが自分以外の分まで頑張るのは不可能」「弟だって私に助けてもらうのは嫌だろうし、私だって誰かに助けてほしいのに」という違和感がありました。
私も頑張ったり、役に立つことが嫌なわけではないですがそれが当たり前になってしまうのは不公平。もっと周囲の方ができることで関わってくれれば、私と弟、親、周囲、社会で広い意味での助け合いができれば。しかたがないことに文句を言いたいのではなく、互いに納得できる”公平”がほしいと今から振り返ると思っていました。※感じ方はひとりひとり違います。
弟とのコミュニケーション方法
弟とは、口をゆっくり大きく開け、表情や身振りを付けて話していました(今は手話)。そのため、私は話すのがゆっくりで表情や身振りがオーバーだとよく言われます。
“きょうだい”の活動に対する反応
最近まで、きょうだい会のことは家族に言っていませんでしたし、きょうだいとして活動をしていいのかはかなり迷いました。きょうだい会について弟や家族に話せるようになったのは、原稿や講演の依頼をいただいて内容を相談したことがきっかけです。
弟や聴覚障害のある友人や知人、親や保護者の方々
運営の相談にも関わってくれたり、これまでの率直な思いや体験を語り合いながら、次世代へのメッセージとしてどのように伝えていけばいいのかを一緒に考えてくれることに何よりも感謝しています。
また、後程お話しますが、きょうだいとして、顔と名前を出して活動する場合は、弟、親を始めとする関係者が”可能な限り”納得して、応援してもらえるように調整が必要になってくるのを感じています。
実は・・・私が弁護士になった”本当の理由”
私の実感ですが、”きょうだい”も”家業”も「将来はよろしくね」は重なる部分がある課題だと思います。
“きょうだい児”と”跡継娘”に
あまり言いたくない気持ちもあるのですが、私は埼玉の地元の“弁護士の娘”で、”きょうだい児”、”聞こえるお姉ちゃん”になったのと同時に人生が変わり、”後継娘”になってしまったという感覚があります。それがタイトルの「”きょうだい児”だったから弁護士になった私」の直接的な意味です。
一見、普通のタイトルですが、意外にシュールです。NHKのドキュメンタリー『ろうを生きる難聴を生きる』で、1時間程のインタビューをしていただい時も、実際の放送で取り上げられたのは”この”部分で、私の核心に迫る永遠のテーマなのだと思います。
理想のきょうだい児と見られることには抵抗
どこかで批判的に面白おかしくパロディにしてキャラを演じている自分とそれを笑っている自分がいます。受け取り方はその方次第ですが、私のキャラやスタンスをご理解くださり、試みに面白さを必要性と感じて応援してくださる方の存在はありがたいと感じます。
”父の娘”
弟と母が療育などに行っている間、私は父の仕事によく付いていきました。周囲の方々が私のことを可愛がってくださるのが嬉しかった反面、本当に申し訳ないのですが「父の娘だから可愛がってくれるんだろうな」という自信のなさも抱えていました。
父はそのように周囲を気にする私とは真逆で、故郷を出て、努力を重ねて弁護士になり、とてもエネルギッシュな性格。娘から見ると、世界一KYで空気が読めない父です。アニマル浜口さん、京子さん父娘を見て他人とは思えないものを感じていました・・・。
今も”大人になったきょうだい児”としての活動に一番手厳しく熱いコメントをくれるのは父です。逆に、受容的過ぎるくらいのコメントをくれるのが母です。
「まずは弁護士の試験に受かるしかない」
物心付いた時から考えていたこと
私は、反発しながらも「父のために頑張ってあげたい」「勉強を頑張ることで、自分自身と弟、家族を差別や偏見から守りたい」という家族への気持ちと「私は弟から何かを取ってしまったのではないか」という身代わり的な罪悪感が交錯していました。また「私も弟も将来どうなるのか、ちゃんとした大人になれるのか、幸せになれるのか、結婚したり家族は持てるのか」と不安でした。
大人になったきょうだい児として伝えていきたいこと
その当時も、既に、全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会(1963年設立)はありましたし、障害とともに生きながら、仕事、家族、子育て、社会活動など充実した人生を生きている方々は大勢いたのですが・・・。子どもの頃にそのような情報やつながりに手が届いていれば大きく違っていたんじゃないかなと思います。
ですから、大人になったきょうだい児として、私と弟の将来の展望、SOSを発信する力と適切な相談相手、差別や偏見への対応方法などのほしかったもの、されて嫌だったこと、してもらってうれしかったこと、自分でもこうすればよかったことなどを伝えていきたいと考えています。
私、家族の遠回りを一例に、子育て中の親御さんや学校の先生などの周囲の大人の方、次世代のきょうだいの方に、必要なところだけを持っていってもらい、残りは反面教師として参考にしていただければ本望ですし、それが私の一番の原動力です。
勉強について
小3の時から自分で希望して塾に通っていて、私にとっては楽しい場所でした。ただ、両親とも私が良い成績を取るとほめてはくれるのですが・・・、父は自分の経歴から「弁護士になるのに学歴は関係ない」。母は「お姉ちゃんがこんなにできなくても、その分弟に分けてあげれば・・・」。
私の人格形成に大きな影響を与えた言葉です。両親にそのような意図はなかったのですが、私は真正面から受け止めてしまい、反発や申し訳なさと同時に、歓迎されていないのだと受け取ってしまいました。適当に手を抜いて悪い点を取って親を喜ばせようともしました。
今なら、親を責めるのではなく、親も”情報不足”や”弱さ”で何の見通しもなく言ってしまったのだと理解した上で流しつつ、「それが本心の一部なのはわかるけれど、私も言われても嫌だし、何もできなくて困る」と言い返すことができますが・・・。当時、親とのコミュニケーションは比較的取れていましたが、そのようなことは言えませんでした。
大人になってから両親に伝えて、「和子がいつもつまらなさそうにしていた理由がようやくわかった。そんなふうに思ってをいたなんて・・・。」と理解してもらえましたが、両親もとても傷付きました。悲しみや後悔だけなく、時には怒りという形で私に反論することもありました。
両親にも、「娘さんの人生なので弁護士になりたいかどうかも含めて娘さんが決めることが第一。もし弁護士になってほしいのならそういうことは言わずに仕事の魅力を背中で見せてあげるのはどうでしょうか。」、「違う人間なのだから分けてあげることなどそもそも不可能ですよ。比較せず、それぞれが自分らしく成長することは悪いことじゃなくて、とても良いことですよ」というような助言が必要だったのだろうな、私も両親もほんの少しのアドバイスで、大きく変わっただろうなと思います。
私も、誰か適切な人に相談できていれば、もっと早くSOSを出せたと思いますし、代弁もしてほしかったです。その方がどちらも深く傷付かずにすんだと思います。決して珍しい事例ではなく、ありふれた事例です。
最終的には、不安や悩みも反発も申し訳なさもすべて振り切って踏み台にしてやるくらいの気持ちで、「どうせなら東大行ってやる」、「弁護士に受かるしかない」と、受験などに合わせて全力でアクセルを踏みました。
私については、親も周囲も、私自身も困っていましたが、何が本質的な原因なのかには誰もわからないまま、アクセル全開と低空飛行の連続で迷走しました。
迷走
高校生の頃、明るく楽しければ何でもいいと思っていました。
”将来の夢”と迷走
弁護士の試験に合格したら合格証書を置いて実家も地元も出たくて、それを本気で”将来の夢”として人生の目標にしていた時期もありましたし、反動で全く勉強しなかった時期もあります。
中学は都内の進学校の女子校に入りましたが、反抗期やさまざまなことが重なり、高校生で家を飛び出して留学。その後、必死に勉強して、奇跡的に東大に入りました。
誰もが私が東大に入るとは思ってもおらず、入学してから私に対する差別や偏見はほとんどなくなりました。だからこそ、目標を見失って燃え尽き、もっと楽しめば良かったのに、学業も部活やサークル活動も友人関係も恋愛もアルバイトもすべてが、当時の私の周囲にいてくれた方々には申し訳ないのですが低空飛行でした(そのおかげで今もエネルギーが残っているのかもしれませんが・・・)。
法学部から転部を決意して手続をするも、直前でやはり法学部に出戻ることにして留年したりと迷走を続けました。
反省
今から思うと、当時はまだ”きょうだい”、”きょうだい児”という自分の迷走を説明できる言葉を知りませんでしたし、自分の人生を自分で切り拓いていくという発想もなく、”理解”されたいという”期待”と”不満”、”甘え”が強すぎました。
それは原動力ではありましたが、いつも自分のエネルギーの多くが取られ、本当に自分がほしかった”理解”や”家族””未来像”を手に入れるために適切な言動はできていませんでした。自分では気付けませんでしたし、適切な相談相手も、気付かせてくれる人も叱ってくれる人もいませんでした。
就活という人生の岐路
地元で家業を継ぐか、都内で就職するか
法科大学院に進学して、27歳で弁護士の試験に合格した後も、地元で父と働くか、都内で就職するかで大きく揺れました。父とも何度も言い争いになりました。
苦しかった就活の面接
就活で弁護士をめざした動機を訊かれると「父が弁護士なのがきっかけで・・・」とごまかして答え、私が弁護士になったのは「”弁護士の娘”に生まれたことに加えて、”きょうだい児”だったから、”聞こえるお姉ちゃん”だから」とは、場の空気を読んで言いませんでした。
弁護士になった後の計画をほとんど考えていなかったことにもようやく気付きました。本当に試練の日々でした・・・。
就活の面接について相談できた恩師
大学院の時、初めての授業の自己紹介でいきなり幼少期に妹さんが亡くなられた話をされた先生がいました。私にとっては「何でそんなこと話すの!」と衝撃で、それも理由のひとつになってその先生のゼミに入りました。
就活の時は「先生はどうして妹さんのこと話すんですか?私は面接どうしたらいいんですか?」と泣きながら相談しました。その恩師の答えは「僕は話したいから、学生に知ってほしいから話している。面接で見ているのは的確な応答ができるかどうかであって、その内容が真実かどうかはあまり気にするところではない。」
20代半ばになって、生まれて初めて、適切な相手に相談でき、適切な答えをもらうことができた経験でした。
”きょうだい”にたどりつき、自分を見つけた
2015年に3人で立ち上げた”ファーストペンギン”の同世代のきょうだいの友人たちと
”きょうだい”の人生の先輩たちにたくさん出会えた
また、「悔いのない決断をするために、可能性があることは何でもしよう」と考え、きょうだいの会にも駆け込みました。
正直、私の課題は後継娘問題、中途半端なエリート意識の燃え尽きなども重なっていたので、きょうだいの会で適切な助言がもらえるかどうかは半信半疑だったのですが、話し始めてみると、すぐに「ずっと探していた場所だ!」「”きょうだい”としての生き方を教えてくれる場所だ!」とわかりました。
もっと早く”きょうだい児”の時に出会っていたかったという思いとその時が私のタイミングだったのだという思いの両方があります。どちらにせよ、「これから」しかないのですが・・・!
選択
”きょうだい”にたどりつき、”普通の世界”で”普通の人”としてはもう十分頑張ったと思えました。これからは“きょうだい”として仕事をしていきたいと考えました。
聴覚障害のある弁護士にも会いに行き、最終的には、地元で父と働く傍ら、”障害の世界”に関わり、狭間の中で”きょうだい”としての道を探していくという第三の選択をしました。結論ではなく、自分ができるだけのことをした、適切な相談相手からの助言も参考にした上で選択できた、という納得感が大事でした。
弁護士になってからも迷走・・・
ここからが本当の迷走
弁護士になってからも迷走は続きました・・・。というか、ここからが本当の迷走でした。
私の場合、”弁護士”をめざしたのは、周囲や社会の期待に応えることで「自分を守るため」でした。なんだかんだ言って、”勉強が多少できたこと”が一番私を守ってくれたように感じます。
試験に合格するまで、働き始めるまでは。勉強については父のような苦労もしていませんし、試験は運も良かったのだと思います。
しかし、働き始めてレールがなくなってしまった後、それまでのツケが回ってきました。
ハッと気付かされた瞬間
「好きで弁護士になったわけじゃない」という言葉を一緒に働く父によくぶつけていました。父から「和子は困っている人を助けたくて弁護士になったんじゃないのか」と言われた時、あまりにも認識が離れすぎていることにハッとしました。
父の立場になってみれば、もちろん自分の希望や期待もあったでしょうが、私のために良かれと思って、自分がやりがいを感じている弁護士という職業をすすめ、後継娘になってくれると思って、長年、学費等を払い続け、時には試験勉強のアドバイス等をしてくれていたわけです。反抗しながらも、父に期待を持たせるように振る舞ってきた私にも責任はあったと思いました。
そして、そのような知恵しかなく、これまで法律の授業で個人の尊重、自己決定権、職業選択の自由等の言葉をさんざん聞いてきたのにも関わらず、自分事として気付かなかったことが本当に愚かだと思いました。
前向きにあきらめる
「どうしてもっと上手に弁護士を天職だと思えるような後継娘に育ててくれなかったの?」という思いで、二世や後継者を対象とする研修の説明会等にも行きました。そこで、「やりたくない人が嫌々やったり、迷っていると、結局周囲に迷惑がかかる。」、「親としては最後は子どもが元気にやりたいことをやっているのが一番うれしい。生きているうちはわかってもらえなくても、草場の陰からはきっと全部わかってもらえる。」と言われたことに自分でもそうだな、そうかもしれないなと納得しました。
弁護士になり、父と一緒に数年間働いたことで、私に与えられた宿題には十分に取り組んだだろうと思い、結婚を機に、実家も地元も出て、改めて後継娘ではない自分の道を探すことにしました。父と二人だけで話すと互いに感情的になってしまうので、母に同席してもらいました。
仕事を休み、国立障害者リハビリテーションセンター学院の手話通訳学科に入学したのは、手話を本格的に学びたかったことはもちろんですが、第一の理由としては”きょうだい”としての自分を確立して活動できるようになりたかったからです。ご関心がある方はこちらで少し話しているのでお読みください。
父とは違う人間だけれども、立派な後継娘になりたかった、どうして跡継娘と手話ができる弁護士ときょうだいの活動を両立できないのだろう。自分にはそれはできないことなのだと前向きにあきらめて方向転換できた今でもそう思う時はあります。父の知人にがっかりした表情で言われるとさすがにこたえます。しかし、誰かが私の人生に責任を取ってくれるわけではありません。
その分は、自分にしかできないことへのエネルギーに変えていければ良いですが、そのままでもしかたないのかもしれません。納得できるのが一番ですが、納得できないことも大事なことだと思います。自分で人生を選び、切り拓いていく良い経験でした。また、選択や関係とは1度きりのものではなく、日々繰り返し続いていくのものだと思います。
進路・職業選択と周囲の期待について
大学生や社会人のきょうだいも、親や先生からの期待や助言に応えようとして、特別支援教育、福祉、医療等の進路を選ぶ場合があります。そうすると、大学入学後や就職後に、「これは本当に自分がやりたかったことなのだろうか…」と悩んだりもします。
「きょうだいという言葉をもっと早く知りたかった」、「将来に他の選択肢があることを知りたかった」、「あなたにはあなたの人生があるんだよ、ということだけは下の世代の子どもたちに伝えたい」という言葉は、進路に悩むきょうだい児・者だけでなく、親御さんや先生方を始めとする周囲の大人の方にも、ぜひ知っていただきたいと思います。
ちなみに、結婚は弁護士になるよりも難しかった
結婚は”将来の夢”だった
障害関係の仕事で出会った夫とは32歳の時に結婚しました。私にとっては、弁護士になることは基本的には自分自身の努力の問題ですが、結婚は相手があることで、その点でより難しいと感じていました。詳細はこちらをお読みください。
結婚は選択のひとつ、自分の求める幸せや未来のために
結婚は、”きょうだい”であることを相手やその家族にどう伝えるか、将来設計など、他の人にはなかなか話すことができないきょうだい特有の大切な課題がつまっています。「きょうだいの私、結婚どうする?~リアルに語る結婚観~」(2018年11月10日)という試みも行いました。
ただ、現在は結婚率が下がり、離婚もよくあることです。結婚に限らず、自分の生活や周囲の人間関係を自分で選択できることがとても大切だと思います。
なお、きょうだいの結婚のハードルは、障害のある人が障害のない人と結婚する際のハードルと共通した課題だと考えています。もちろん、ハードルを感じる人も感じない人もいます。
※追記
イベント当日は100名以上のきょうだい、パートナー、親子の方々が参加、NHK645で放映していただきました。参加レポートはツッコミを入れながらお読みください(笑)。
きょうだいの私、結婚どうする?参加レポート(2019年1月1日公開)
NHKニュース 「わたしと結婚してくれますか?」(2019年1月18 日)
「”きょうだい児”だったから弁護士になった私」が今伝えたいこと
当たり前だと感じる方もいるとは思いますが、最終的にこの”出発点”にたどりつきました。
きょうだい児だった私に伝えたい”出発点”
私の場合は“将来の夢”と”進路”が大きなテーマでしたが、”きょうだい児”、”きょうだい”であってもなくても、自分の人生や幸せは自分で”選択”する権利があること、兄弟姉妹の扶養等を含め、親や周囲、社会からの”期待”は義務や強制でないという”出発点”を子どもの頃のきょうだい児だった私には伝えたいと思います。
義務ではないということは、良い/悪い、正しい/間違い、許される/許されないではなく、自分の意思で自発的にするか/しないかを”選択”することが”出発点”だということです。
もちろん、”きょうだい児”、”きょうだい”に限らず、親も障害児者も、それ以外の方々も、誰もが人間として対等に大切にされなくてはいけません。
家族が互いに考えていることを知り、むりのない範囲で良い方向へ進めるよう一緒に考えていけるきっかけになる機会を親御さんや趣旨に賛同して応援してくださる方のご協力をいただきながら企画中です。
きょうだいも”期待”されるだけでなく、周囲や社会へ”期待”を持ち、適切な形で伝えていっていいのではないか、”きょうだい”が自分の思いや考えを自由に言える社会は誰もが生まれてよかったと思える社会につながっていくのではないかと私は思うようになりました。
”期待”は裏切っていきたい
ただ、現状を正直に言うと、私の家族を始め、周囲は”応援”半分、期待が外れ”がっかり”半分の方々が多いように感じています。家族にとって、私がいろいろと過去の出来事などを話すことは”迷惑”な話です。
これこそが多くのきょうだいがさまざまな形で経験する課題そのものの現れですが、きょうだいが言えずに我慢するのは単純におかしいと思います。また、言うことができれば、少しでも解決や調整につながることができ、全体も良い状態になっていくかもしれません。
最近、人間関係については、その人との間にひとつでも良い思い出があればそれで十分ではないかと考えるようになりました。半分応援してもらえるなら十分ありがたいですし、10%でも十分だと思います・・・。お互いに疲れてきましたので父とも休戦しました。
どこまで周囲を”がっかり”させたり、”迷惑”をかけてもよいかは、最終的には、周囲とどのような関係を作りたいかによって、自分の態度や言動、相手への説明と傾聴の対話のさじ加減を自分が責任を取れる範囲で判断するしかしかないと思います。
その分、多くの人がより良く幸せになれるような活動につなげていきたいと考えています。そのような意味で、これからも”期待”は裏切っていきたいです。
※”兄弟姉妹の扶養義務”
”兄弟姉妹の扶養義務”は、民法の教科書的に説明すると、親の未成年の子に対する最後のパンの一片まで分け与えるべき生活保持義務とは異なり、自分を犠牲にする必要はなく、自分の身分にふさわしい生活をしてもなお余りがある場合に経済的な援助をする生活扶助義務にとどまります。身辺の世話は義務に含まれません。そもそも、諸外国と比較して、兄弟姉妹を扶養義務者とする立法例は珍しいようです。
Sibkotoへの思いと可能性
単純ですが、インターネットってすごい
私自身、きょうだいの集いに月1回程度参加していた頃に比べ、このSibkoto、Twitter、Facebookなどで“きょうだい”に関する多くの情報、ヒントや新しい気付き、支えをもらえるようになり、大きく変わりました。
いつかはSibkotoも1万人集まれば・・・!
また、日頃、全国に会員数万人規模の障害者関係の団体の発言力、影響力を目の前で見ていると、「いつかはSibkotoも1万人集まれば・・・!」と思ってしまいます。
障害のある先人の方々からは社会は良い方向に変えることができること、方法と課題、人生の深さとそれを面白いと楽しむことを教えていただきました。私の”きょうだい”としての活動についても「”きょうだい”の課題は”障害”の課題の本質だ」と応援いただいています。
今は1万人!と言うと笑われていますが、平成29年度障害者白書の範囲だけでも、日本の障害のある方は約860万人。
Sibkotoの対象とする”障害”はさらに広いので、“きょうだい”、“きょうだい児”という言葉、情報が必要な人や場所に届けば、数年間できょうだいの会員(無料 詳細はこちら)1万人は現実的な数だと私は本気で考えています。
また、時代柄、おい、めい、いとこの方も歓迎しています。層が広がることで障害種別、地域、年齢、共有したい体験や気持ち、必要な情報やヒントなどの細分化したニーズにもマッチしていくのではないでしょうか。
Sibkotoは2018年4月にスタートして、半年後の10月にきょうだいの登録数が約300人、2019年10月には800人、2024年には2000人を超えました(追記)。
”きょうだい”、”きょうだい児”を誰もが知っている言葉にしたい
”きょうだい”、”きょうだい児”、”きょうだい会”という言葉が必要な人に届くように、誰もが知っている言葉にしたい、関連する分野の教科書や辞書などにも当たり前のように掲載される言葉になってほしいというのが私の願いです。
募集
現在、Sibkotoではこのインタビューのようにご自身のご自身の経験を発信したい、発信してもいいよ、という方を募集しています。もし、いらっしゃいましたら、インタビュー末尾の特集記事への寄稿のお願いをお読みの上、ぜひご連絡お願いします。
Sibkotoの運営者も、これまでのインタビュー(こちら)の通り、それぞれが異なる背景、思いや考えを持っていますが、話し合い、試行錯誤しながら運営をしています。
Sibkotoシブコトの場を一緒に育てていただけたら大変ありがたいです。体験談の特集記事への寄稿や投稿(匿名も歓迎です)、こんなことを知りたい、やってみたいなどのリクエストをお待ちしています。
新たな”出発点” 迷わず、シンプルに
“きょうだい”を看板に
先日、”法律事務所シブリング”を立ち上げ、独立しました。”シブリング(Sibling)”は英語で”兄弟姉妹”という意味で、“きょうだい”を看板に掲げました。
まだ、自分に何ができるのかは試行錯誤中ですが、やはり、大人や中年期以降になってからの家族の課題を解決、予防していくためには、子ども時代からの関係が非常に重要なので、教育関係にも取り組んでいきたいと考えています。
これからも「”弁護士”である前に”きょうだい”」です。
新たな出発点
きょうだいの先輩方がこれまで作り上げてくださった成果を受け取りながら活動できることにとても感謝しています。
現在の流れとひとつひとつの機会を大切にして、迷わず、シンプルに進んでいきたいと思います。
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「障害」ある人の「きょうだい」としての私 (岩波ブックレット)
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プロフィール・著書、執筆・講演等の仕事依頼の連絡先はこちら
【Sibkoto編集部より】
Sibkotoでは、きょうだい、きょうだい児(おいめい、いとこの方含む)についての体験談を募集しています(匿名での掲載可)。親御さんや家族、支援者等の立場の方も歓迎しています。体験談はタイトル、中見出しを含めて2000文字以上の文章とさせていただきます。体験談掲載希望の旨、お問い合わせページ よりお待ちしております。
※タイトルを「”きょうだい児”だったから弁護士になった私が今伝えたいこと」から「“きょうだい児”だったから弁護士になった私~周囲の期待と自分の進路・職業選択~」に改題し、掲載情報等の更新、加筆修正を行いました。また、著書等についてアップデートしました。
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