2020 . 04 . 10
聞こえないきょうだいと育つということ ~聞こえるきょうだい=SODAソーダが考える「親あるうちに」~
50代の「"聞こえる姉”=SODAソーダ」であるたたみさん。6歳離れた「聞こえない妹」と共に育ち、それぞれの独立、結婚を経て、親の介護と看取りも経験されています。誰かの何かのヒントになればと、自己紹介を兼ねてのソーダの「あるある?」エピソード、親を見送る世代になった今の思いを寄稿していただきました。 障害種別や個人によって異なる点や共通する点についても、考えるきっかけになればと思います。

たたみ さん
196X年東京生まれ
大学の語学系学部を卒業。大手企業の総合職などを経て、現在は翻訳関連職。気が付いたら子どもの頃からやってきた「言葉の橋渡し」に通じる職業を選んでいました。「聞こえないきょうだいをもつSODAソーダ&家族の会」に参加しています。
50代の聞こえる姉。6歳離れた聞こえない妹がいます。
共に親元で過ごした時期、社会人となり実家を離れ、それぞれの結婚、配偶者やその家族との関係、父の介護と看取りといった経験を経て今に至ります。
聞こえない兄弟姉妹と育つソーダについて知っていただきたく、自己紹介を兼ねたソーダの「あるある?」エピソードと親を見送る世代になった今の思いをご紹介します。

「ソーダ=SODA: Siblings of Deaf (Adult)」は、聞こえない人の聞こえる兄弟姉妹を意味する言葉です。
元々は米国のろう者コミュニティで、聞こえない親をもつ聞こえる子どもを指す「コーダ=CODA: Children of Deaf Adult(s)」から派生した用語のようで、Adultの名残りのAが付いていますが、子どもも含まれます。Siblingは兄弟姉妹を意味する英単語です。
障害のないきょうだいに呼称をつけることには賛否あるかもしれませんが、ここでは特別な何かを主張する目的ではなく「聞こえない兄弟姉妹と育った同じ立場の人」を示す用語として使いたいと思います。
また「聞こえない」という表現は、「ろう者」「難聴者」「聴覚障害者」「デフ」など、医学的側面や言語・文化的な意味でさまざまな表現があるなかで、それらを包括する意味で選択しました。「ない」という否定の語句に違和感が残りますが、折衷案としてお許しください。


「聞こえないきょうだいをもつSODAソーダ&家族の会」には、色々なソーダが参加しています。きょうだいの聞こえの程度や受けた学校教育、兄弟姉妹のいずれか、家族で聞こえないのはひとりか複数か、年代、コミュニケーション方法、家族以外のろう・難聴者との関わりの有無などによって、ソーダの経験や環境はさまざまです。親ときょうだいが聞こえない、コーダでありソーダの人もいます。
ここでは自己紹介を兼ねて、聞こえる親の元で聞こえない妹と育った私のエピソードを挙げてみようと思います。どこかに共通する点があるでしょうか?
ろう学校でも手話は禁止、補聴器を使っての口話や普通学校へのインテグレーションが推奨されていた時代。妹を含めて家族全員が手話を使っていませんでした。
コミュニケーション方法は、子ども時代は表情と身振り手振り付き口話+筆談+ホームサイン、現在はそれに指文字と手話単語、そしてメールや音声文字変換アプリなどのデジタルツールが加わりました。

大声を出すのではなく、口の形をハッキリさせ、頭を動かして区切りを示したり、語尾を伸ばしながら表情を加えることで質問なのか意見なのかを伝えたり、読み取りにくい言葉は言い換えや補足をしていました。

パパ・ママのような口の形が似た単語、ご飯やお風呂などよく使う単語は、自分たちでホームサインを考え出しました。頭頂部が寂しい「パパ」は頭をツルッと撫で、いつも怒っている「ママ」は鬼で示すといった感じ。鬼のツノを2回出せば「ママ怒ってる」です。
床や柱を振動させて注意を引いたり、手のひらや空中に文字を書いたり。急に部屋に入ると嫌がるので、襖をガタガタさせてから手だけ出して「ご飯だよ」と呼んだことも。
こうした工夫は誰かに教わったのではなく、子ども同士が「伝える」目的で自然に生み出したものですが、なぜか似たような話し方をするソーダが多い気がします。
後ろから近づく車の音や補聴器のハウリング音を知らせたり、聴者が一斉にピクッと反応するような大きな音や衝撃音がしたら、何が聞こえたか(救急車だよ、コップが割れたみたい、パパがオナラした!など)を伝えます。これは今でも反射的にやってしまいます。
耳からの情報無しでは固有名詞や新しい言葉の読みが難しいので正しい読みを指摘することも。「先生が黒板を引っ掻くと教室中が大騒ぎになるんだけど、どういう音がするの?」「この歌手ってどんな声?」と聞かれて説明に困ったこともありました。
子どもの感覚は柔軟なので、妹の発音を聞き取ったり、妹にわかるように話したりするのは、家族のなかで私が一番得意だったと思います。特に父はかなり早い段階から私の仲介に頼っていましたし、忙しい母から「言っといて」と伝達を頼まれることが多かったので、だんだん自分の役割だと思い込んだのかも。
具体的には、伝わりにくい聴者の音声(口の動きが少ない・早口・甲高い声など)を妹に読み取りやすく言い直します。話がややこしい時は因果関係を簡潔に言い換えてしまうこともありました。また逆方向は妹の発音を聞き取って、聴者向けに音声で話します。 暗闇やマスク越しでは聞き取りにくいので、実際には私も補助的に口や表情を読んでいるようです。

こうした仲介は「リスピーク(復唱)」とも言いますが、口は動かしても話しているのは自分ではないし、長く続けると私も(読み取る方の妹も)疲れるんです。親戚の集まりなどでは周囲の会話が同時進行でどんどん進んでいってしまい、リスピークが追いつかないのがとても嫌でした。子どもの頃は面倒になると「伝わってないよ」とだけ言って逃げてしまうこともあったと思います。
リスピークと言っても完璧ではなく、妹にとって「他の人が話すより聞き(読み)取りやすい」「他の人より発音を聞き取ってくれる」程度だったと思いますが、ちゃんと伝えられないことには罪悪感がありました。本来なら子どもの私が責任を感じる必要はなかったのですが、いつの間にか染みついてしまったようです。子どもなりに役割を果たすことで家庭内での存在価値を認めてもらおうとしていたのかもしれません。
大人になってからは難しい話を伝えきれないことが増えて、いつも申し訳ない気持ちになります。
妹がいるのに音声だけで会話をすることに罪悪感があります。なぜか親はほとんど気にせず、普通に音声で話しながら一部分だけ妹に伝えようとするので、話の背景がさっぱり伝わらないようなことも多かったです。通じてないなと思ったり、妹がチラッとこちらを見たら、すかさず仲介に入るような感じでした。
子どもの頃から常に周囲の会話にアンテナを張ってきたせいか、聞こえる・聞こえないに関係なく、話がずれていたり伝わっていない状況にはムズムズします。職場で遠くの会話の食い違いが耳に入ってしまい、関係ないのに仲介しに行って不審がられたり、上司から「いつもじっと観察されている気がする」と指摘されたことも。
妹の耳が聞こえていないらしいとわかってから、親は妹を連れてあちこちの病院や施設を巡り、私も何度か一緒に連れて行かれました。何か大変なことが起きているのはわかったけれど、親はピリピリしていてとても聞けません。こっそり覗いてみた親向けの冊子に「聞こえない子はこの家族を選んでやってきた」みたいな文章とコウノトリのイラストがあったことをうっすら覚えています。
きょうだいの不安を払拭するためにも、年齢に応じた説明があれば良かったと思います。
子どもの頃も伝えきれないもどかしさがありましたが、大人になって口話だけでは深い話ができなくなる一方で、妹が進学、就職を経て手話を使うようになり、家族なのに別の言語=外国語を話す人になったような、置いていかれた寂しさを感じていました。たとえるなら移民や国際結婚などの多言語家庭と似た感覚なのかもしれません。
手話を使うようになって妹の言葉の世界が広がったのは本当に喜ばしいこと。でも子どもの頃から私も一緒に手話を勉強できていたら、この中途半端な気持ちも違ったのだろうと思います。
私と手話との微妙な出会い・・・
ちなみに私と手話との最初の出会いはあまり良くありませんでした。高校のホームルームの時間に手話のプリント(挨拶と単語いくつか)が配られ、当てられた人はやってみるよう言われたのです。指導していたのは親が手話を習っているという同級生で、私には「世界」が当てられたのですが、何となく不満があって適当に手を動かしたら、もっと大きく丸くと注意されたのです。

この瞬間の惨めな気持ちははっきり覚えています。当時は何が不満なのか自分でもわからなかったけれど、今なら説明できます。
聴覚障害についての説明が一切なく手話だけを紹介されたこと、同級生が何か目新しい遊びみたいに面白がっていたこと、「手話習っている=いい人」みたいな図式になっていたこと、家族なのに手話を知らない後ろめたさ、こうしたすべてが重なって、自分と妹のコミュニケーション方法を土足で踏みにじられたような気持ちになったのだと思います。
「聞こえない相手とまともに話したことないのに、私に指導するの?聞こえない人がみんな手話を使うわけではないのに!趣味じゃなくて日常なのに!“世界”っていう単語よりもっと大事なことがあるのに!」こんな気持ちが渦巻いていました。
いま思えば、聞こえない人と接する際の注意点などをソーダの立場から説明する機会があったら、同級生たちにも遊びではなく身近な問題として認識してもらえたのかもしれません。
いまさらながら手話勉強中・・・
最初の出会いこそ微妙でしたが、それでも妹が手話を使うようになって以降、私も本を買って単語を覚えたりしました。やはり口話や筆談よりもストレートに伝わりやすくて便利だと実感したからです。
手話の必要性をより感じるようになったのは、妹が同じく聞こえない相手と結婚した頃です。それまでの私はいわば「妹専属のリスピーク係」だったわけですが、同じ聞こえない相手でも義弟の発音には慣れていなかったのでうまく聞き取れず、妹の仲介が必要だったのです。また私の夫はろう・難聴の世界とはまったく関わりがなかったので、家族が集まると手話、口話、筆談、音声日本語と、何段階もの仲介が同時に必要になり、非常に大変になったことがきっかけです。
私はまだ指文字と手話単語を口話の補助に使っているだけですが、手話として話せるように勉強中です。これは妹夫婦と話すためでもありますが、ソーダの会の活動を通じてろう・難聴の方々と接する機会が増えたので、ちゃんと通じる言葉がほしい、中途半端な感じをどうにかしたいという自分自身の目的が大きいかも。語学専攻で翻訳を仕事にしているのに、実の妹の言語がわからないというのも悔しい気がして。
記憶力のある若いうちに勉強しておけば良かったとは思いますが、ただ子どもの頃に「手話をやりなさい!」と押し付けられていたら、「聞こえないきょうだいのために我慢しているのに、なんで手話までやらないといけないの!」と反発していたかもしれません。
口話教育とソーダと手話・・・
私と同様に手話を知らないまま育ったソーダは多いと思います。聞こえない本人が手話を使うようになった時期が遅いと、ソーダも学業や仕事、子育てなどで忙しい時期だったり、独立して実家を離れ、疎遠になっていることもあるでしょう。きょうだい間なら話が通じるので必要性を感じないとか、手話サークルの雰囲気がソーダには少し入りづらいという側面もあるかも。ですから、大人になったソーダが手話をやる・やらないについては本人の選択を尊重してもらえたら嬉しいです。どんな方法であれ、伝え合おうとすることが大切だと思うので。
それぞれの家族にとってどんな形が良いのか、一律の判断は難しいですが、我が家について言わせてもらうなら、家族同士が仲介を要さずにコミュニケーションできる方法はやはり必要で、その方法のひとつとして、せめて指文字や単語レベルだけでも、家庭内に自然な形で手話があれば良かったのかもしれません。子ども時代の私と妹も、目に見える伝達手段が必要だとわかったからこそ、手話の代わりにホームサインを考え出したと思うからです。
次世代のソーダや家族、もちろん聞こえない本人にも、どんな形やタイミングであれ手話とは良い出会いをしてほしいと思っています。

聴覚障害に対する周囲の反応は色々です。妹の独特な発音をからかう近所の子ども、それを諌めつつ差別用語を使う大人、ジロジロ見るのに目が合うと視線をそらす人、両親のいないところで聞こえない原因をヒソヒソ噂する大人もいました。妹について「可哀想ねえ」「聞こえないのに頑張ってる」というようなセリフもよく耳にしました。

親も同じようなことを口にしますが、きょうだいは親に比べると「可哀想」という気持ちは少ないかもしれません。私にとっては聞こえない状態が妹のデフォルトで、それをあたりまえとして育ったからです。聞こえる人が大多数の世界で生きていく「大変さ」は年齢が近いので実感としてわかるけれど、哀れんだり悲しんだりする親や周囲の大人とは少し違う捉え方をしていたと思います。
実はソーダにとって一番問題なのは、親戚や知り合いのおばさんたちかも。私は「偉いわねぇ」「しっかりしてるわ」「お母さんを助けてあげてね」とよく言われました。子どもの頃は誇らしい気分でしたが、こういう不用意な発言は、たとえほめているつもりや善意であっても、「我慢しなきゃ」「しっかりしなくちゃ」「お母さんを助けなくちゃいけない」と子どもソーダをじわじわ追い詰めてしまうので要注意です。
聞こえない子どもは、何をするにもどこに行くのも家族の中心。同じことをしても片方はほめられ、もう一方は「お姉ちゃんだから」に加えて「聞こえるのだからあたりまえ」と気に留めてもらえない。そんなことが積み重なると、心のどこかに少しずつ無理が生じます。子どもソーダの問題は、傍目にはあまり深刻に見えず、聴覚障害児を育てるという大問題の陰に隠れてしまいがち。でも決して軽視しないでほしいという意味で、ここからは「あるある?」を離れて、私の個人的な体験をお話ししたいと思います。

イクメンなんて存在せず、ネットで情報も得られない時代。妹を連れて遠くのろう学校や発音指導に通い、家でも読み聞かせや絵カードなど、懸命に課題をこなしていた母には、時間的にも精神的にもまったく余裕がありませんでした。
私は、熱を出せば予定が狂ったと文句を言われる、手伝いの仕方が少しでも気に入らないと怒られる、楽しそうにしていると「あんたはいいわねえ」と嫌味を言われる、母の日にプレゼントしたエプロンは「これ以上働けということか!」と投げつけられる、父に対する不満を涙ながらに聞かされる、といった状況で育ちました。心はもう傷だらけです。階下から聞こえてしまう両親の喧嘩に耳を塞ぎながら、聞かずに済む妹をうらやましいと思っていました。
孤立無援だった母は、いつしか私がまだ子どもであることを忘れ、我慢することや手伝うことを、「当然」あるいは「この子(=私)のためにもなる」と思い込もうとしたのではないでしょうか。「だって聞こえないんだから可哀想でしょう?」そう言って正当化しなければ、やっていけなかったのかもしれません。
平穏に暮らすためには母に迷惑をかけないこと、母の機嫌の良し悪しを見極めることが大切でした。こうなってしまうと、たまに優しくされても、いつまで続くか不安で無条件に甘えることができなくなります。心のどこかで「この人(=母)には頼れない」と思っているような子どもで、可愛げがないのでますます当たり散らされる、完全に悪循環でした。
私の方も向いてほしい、でも母や妹の方が大変だということはわかっているからワガママは言えない。そんなこんなで小学生の頃から白髪がたくさんありましたし、心から楽しむということが苦手で周囲の顔色を窺うことに長けた子どもでした。
ただ成績が上がれば無条件でほめてもらえるので、勉強は頑張ったと思います。

表面上は良い子のまま成長し、進学、就職しましたが、生育歴の影響は、ずっとずっとあとの30代になってから精神的不安とパニックという形で表に出てきました。母と周囲の顔色ばかり気にしているうちに自分が空っぽだと気付いてしまったとでも言いましょうか。カウンセリングに通院もしましたし、長い悩みの時期を経て自分の気持ちに折り合いをつけられるようになるまでに、そこから10年近く要しました。
実は今も仲良し母娘が出てくるCMは苦手ですし、混沌としたうるさい場所はなるべく避けるようにしています。他人と打ち解けるのに時間がかかるので友達は少ないです。縁あって結婚はしましたが、子どもはいません。母と同じことをしてしまいそうで怖かったのです。母に対するわだかまりは解消したわけではなく、今は何とかやり過ごす術を身につけたと言った方が正しいと思います。
ちなみに父は「俺は外で稼いでいるんだ、文句を言うな」タイプで、家庭人としてはダメダメでしたが、母の不機嫌のせいでギスギスした雰囲気をドリフの真似で和ませてくれるような茶目っ気もある人でした。追い詰められてストレスだらけの私を見かねて、外食に連れ出してくれたこともあります。反抗した時期はありましたが、私にとっては貴重な「無条件で頼れる大人」で、成人してからはお寿司屋さんのカウンターに並んで母の悪口を言い合う「同志」のような存在になりました。おかしな父娘関係ですが、私が子ども時代を生き延び、悩みの時期を抜け出せたのは、父のような「逃げ場となる大人」がいてくれたおかげかもしれません。
妹に対しては(子どもの頃にジェラシーを感じたことはあっても)不思議とネガティブな気持ちはありません。大切に愛されて育ち、気配りもできる彼女の人柄もあるし、年齢差のある姉なので面倒をみることに抵抗が少なかったという面も関係するかも。このあたりはソーダでも立場によって違いが大きいようです。
自分が「障害者のきょうだい」だと知ったのは、悩んでいた30代の頃です。母娘関係やアダルトチルドレンに関する本も読みましたが、自分の気持ちに一番しっくり来たのは、きょうだい児の記事や文集などでした。障害種別や背景が違っていても、色々なきょうだい児の経験を読むことで、自分の気持ちを整理できたように思います。
ただ「外から見えない」聴覚障害の場合、そのきょうだいが抱える問題も軽く見られがちなので、きょうだい会などの活動には何となくアウェー感がありました。
それでも、苦しさや寂しさが障害の陰に隠れて正当化されてきたのは同じですし、家族観への影響、恋愛や結婚相手へのカミングアウト、責任感や罪悪感などは、どんな障害のきょうだいにも共通すると思うので、若いソーダには(変な言い方ですが)もしそれで気持ちが楽になるのなら、堂々と「きょうだい児」として悩んでいいんだよ、と言いたいです。

「SODAソーダ」という言葉に出会ったのはもう少しあとですが、「きょうだい児」だけでは説明しきれないコミュニケーションに関する思いを共有できる気がして、本当に嬉しかったです。子どもの頃に「○○ちゃんのお姉ちゃん」という付属物ではなく、自分自身の立場として「ソーダです」と言える環境があったら、ずっと楽になれたかもしれません。悩んでいた昔の自分にもこの便利な言葉を教えてあげたい気持ちになりました。
共に親元で過ごした時期、社会人となり実家を離れ、それぞれの結婚、配偶者やその家族との関係、父の介護と看取りといった経験を経て今に至ります。
聞こえない兄弟姉妹と育つソーダについて知っていただきたく、自己紹介を兼ねたソーダの「あるある?」エピソードと親を見送る世代になった今の思いをご紹介します。
ソーダSODAって何?

「ソーダ=SODA: Siblings of Deaf (Adult)」は、聞こえない人の聞こえる兄弟姉妹を意味する言葉です。
元々は米国のろう者コミュニティで、聞こえない親をもつ聞こえる子どもを指す「コーダ=CODA: Children of Deaf Adult(s)」から派生した用語のようで、Adultの名残りのAが付いていますが、子どもも含まれます。Siblingは兄弟姉妹を意味する英単語です。
障害のないきょうだいに呼称をつけることには賛否あるかもしれませんが、ここでは特別な何かを主張する目的ではなく「聞こえない兄弟姉妹と育った同じ立場の人」を示す用語として使いたいと思います。
また「聞こえない」という表現は、「ろう者」「難聴者」「聴覚障害者」「デフ」など、医学的側面や言語・文化的な意味でさまざまな表現があるなかで、それらを包括する意味で選択しました。「ない」という否定の語句に違和感が残りますが、折衷案としてお許しください。

自己紹介も兼ねて、ソーダあるある?を9つのテーマで

「聞こえないきょうだいをもつSODAソーダ&家族の会」には、色々なソーダが参加しています。きょうだいの聞こえの程度や受けた学校教育、兄弟姉妹のいずれか、家族で聞こえないのはひとりか複数か、年代、コミュニケーション方法、家族以外のろう・難聴者との関わりの有無などによって、ソーダの経験や環境はさまざまです。親ときょうだいが聞こえない、コーダでありソーダの人もいます。
ここでは自己紹介を兼ねて、聞こえる親の元で聞こえない妹と育った私のエピソードを挙げてみようと思います。どこかに共通する点があるでしょうか?
①聞こえない妹がいると言うと「じゃあ手話できるんだ」とよく言われます
ろう学校でも手話は禁止、補聴器を使っての口話や普通学校へのインテグレーションが推奨されていた時代。妹を含めて家族全員が手話を使っていませんでした。
コミュニケーション方法は、子ども時代は表情と身振り手振り付き口話+筆談+ホームサイン、現在はそれに指文字と手話単語、そしてメールや音声文字変換アプリなどのデジタルツールが加わりました。

②妹と話す時は独特な話し方・伝え方のスイッチが入ります
大声を出すのではなく、口の形をハッキリさせ、頭を動かして区切りを示したり、語尾を伸ばしながら表情を加えることで質問なのか意見なのかを伝えたり、読み取りにくい言葉は言い換えや補足をしていました。

パパ・ママのような口の形が似た単語、ご飯やお風呂などよく使う単語は、自分たちでホームサインを考え出しました。頭頂部が寂しい「パパ」は頭をツルッと撫で、いつも怒っている「ママ」は鬼で示すといった感じ。鬼のツノを2回出せば「ママ怒ってる」です。
床や柱を振動させて注意を引いたり、手のひらや空中に文字を書いたり。急に部屋に入ると嫌がるので、襖をガタガタさせてから手だけ出して「ご飯だよ」と呼んだことも。
こうした工夫は誰かに教わったのではなく、子ども同士が「伝える」目的で自然に生み出したものですが、なぜか似たような話し方をするソーダが多い気がします。
③音を知らせたり説明したりするのが習慣になっています
後ろから近づく車の音や補聴器のハウリング音を知らせたり、聴者が一斉にピクッと反応するような大きな音や衝撃音がしたら、何が聞こえたか(救急車だよ、コップが割れたみたい、パパがオナラした!など)を伝えます。これは今でも反射的にやってしまいます。
耳からの情報無しでは固有名詞や新しい言葉の読みが難しいので正しい読みを指摘することも。「先生が黒板を引っ掻くと教室中が大騒ぎになるんだけど、どういう音がするの?」「この歌手ってどんな声?」と聞かれて説明に困ったこともありました。
④親や周囲の聴者と妹の会話を仲介するのは自分の役割だと思っていました
子どもの感覚は柔軟なので、妹の発音を聞き取ったり、妹にわかるように話したりするのは、家族のなかで私が一番得意だったと思います。特に父はかなり早い段階から私の仲介に頼っていましたし、忙しい母から「言っといて」と伝達を頼まれることが多かったので、だんだん自分の役割だと思い込んだのかも。
具体的には、伝わりにくい聴者の音声(口の動きが少ない・早口・甲高い声など)を妹に読み取りやすく言い直します。話がややこしい時は因果関係を簡潔に言い換えてしまうこともありました。また逆方向は妹の発音を聞き取って、聴者向けに音声で話します。 暗闇やマスク越しでは聞き取りにくいので、実際には私も補助的に口や表情を読んでいるようです。

こうした仲介は「リスピーク(復唱)」とも言いますが、口は動かしても話しているのは自分ではないし、長く続けると私も(読み取る方の妹も)疲れるんです。親戚の集まりなどでは周囲の会話が同時進行でどんどん進んでいってしまい、リスピークが追いつかないのがとても嫌でした。子どもの頃は面倒になると「伝わってないよ」とだけ言って逃げてしまうこともあったと思います。
リスピークと言っても完璧ではなく、妹にとって「他の人が話すより聞き(読み)取りやすい」「他の人より発音を聞き取ってくれる」程度だったと思いますが、ちゃんと伝えられないことには罪悪感がありました。本来なら子どもの私が責任を感じる必要はなかったのですが、いつの間にか染みついてしまったようです。子どもなりに役割を果たすことで家庭内での存在価値を認めてもらおうとしていたのかもしれません。
大人になってからは難しい話を伝えきれないことが増えて、いつも申し訳ない気持ちになります。
⑤話が通じていなかったり、食い違っている状態に敏感です
妹がいるのに音声だけで会話をすることに罪悪感があります。なぜか親はほとんど気にせず、普通に音声で話しながら一部分だけ妹に伝えようとするので、話の背景がさっぱり伝わらないようなことも多かったです。通じてないなと思ったり、妹がチラッとこちらを見たら、すかさず仲介に入るような感じでした。
子どもの頃から常に周囲の会話にアンテナを張ってきたせいか、聞こえる・聞こえないに関係なく、話がずれていたり伝わっていない状況にはムズムズします。職場で遠くの会話の食い違いが耳に入ってしまい、関係ないのに仲介しに行って不審がられたり、上司から「いつもじっと観察されている気がする」と指摘されたことも。
⑥聞こえないと判明した時も、私には説明してもらえず不安でした

妹の耳が聞こえていないらしいとわかってから、親は妹を連れてあちこちの病院や施設を巡り、私も何度か一緒に連れて行かれました。何か大変なことが起きているのはわかったけれど、親はピリピリしていてとても聞けません。こっそり覗いてみた親向けの冊子に「聞こえない子はこの家族を選んでやってきた」みたいな文章とコウノトリのイラストがあったことをうっすら覚えています。
きょうだいの不安を払拭するためにも、年齢に応じた説明があれば良かったと思います。
⑦家族だけど共通言語はあやふやで、手話には微妙なコンプレックスがあります
子どもの頃も伝えきれないもどかしさがありましたが、大人になって口話だけでは深い話ができなくなる一方で、妹が進学、就職を経て手話を使うようになり、家族なのに別の言語=外国語を話す人になったような、置いていかれた寂しさを感じていました。たとえるなら移民や国際結婚などの多言語家庭と似た感覚なのかもしれません。
手話を使うようになって妹の言葉の世界が広がったのは本当に喜ばしいこと。でも子どもの頃から私も一緒に手話を勉強できていたら、この中途半端な気持ちも違ったのだろうと思います。
私と手話との微妙な出会い・・・
ちなみに私と手話との最初の出会いはあまり良くありませんでした。高校のホームルームの時間に手話のプリント(挨拶と単語いくつか)が配られ、当てられた人はやってみるよう言われたのです。指導していたのは親が手話を習っているという同級生で、私には「世界」が当てられたのですが、何となく不満があって適当に手を動かしたら、もっと大きく丸くと注意されたのです。

この瞬間の惨めな気持ちははっきり覚えています。当時は何が不満なのか自分でもわからなかったけれど、今なら説明できます。
聴覚障害についての説明が一切なく手話だけを紹介されたこと、同級生が何か目新しい遊びみたいに面白がっていたこと、「手話習っている=いい人」みたいな図式になっていたこと、家族なのに手話を知らない後ろめたさ、こうしたすべてが重なって、自分と妹のコミュニケーション方法を土足で踏みにじられたような気持ちになったのだと思います。
「聞こえない相手とまともに話したことないのに、私に指導するの?聞こえない人がみんな手話を使うわけではないのに!趣味じゃなくて日常なのに!“世界”っていう単語よりもっと大事なことがあるのに!」こんな気持ちが渦巻いていました。
いま思えば、聞こえない人と接する際の注意点などをソーダの立場から説明する機会があったら、同級生たちにも遊びではなく身近な問題として認識してもらえたのかもしれません。
いまさらながら手話勉強中・・・
最初の出会いこそ微妙でしたが、それでも妹が手話を使うようになって以降、私も本を買って単語を覚えたりしました。やはり口話や筆談よりもストレートに伝わりやすくて便利だと実感したからです。
手話の必要性をより感じるようになったのは、妹が同じく聞こえない相手と結婚した頃です。それまでの私はいわば「妹専属のリスピーク係」だったわけですが、同じ聞こえない相手でも義弟の発音には慣れていなかったのでうまく聞き取れず、妹の仲介が必要だったのです。また私の夫はろう・難聴の世界とはまったく関わりがなかったので、家族が集まると手話、口話、筆談、音声日本語と、何段階もの仲介が同時に必要になり、非常に大変になったことがきっかけです。
私はまだ指文字と手話単語を口話の補助に使っているだけですが、手話として話せるように勉強中です。これは妹夫婦と話すためでもありますが、ソーダの会の活動を通じてろう・難聴の方々と接する機会が増えたので、ちゃんと通じる言葉がほしい、中途半端な感じをどうにかしたいという自分自身の目的が大きいかも。語学専攻で翻訳を仕事にしているのに、実の妹の言語がわからないというのも悔しい気がして。
記憶力のある若いうちに勉強しておけば良かったとは思いますが、ただ子どもの頃に「手話をやりなさい!」と押し付けられていたら、「聞こえないきょうだいのために我慢しているのに、なんで手話までやらないといけないの!」と反発していたかもしれません。
口話教育とソーダと手話・・・
私と同様に手話を知らないまま育ったソーダは多いと思います。聞こえない本人が手話を使うようになった時期が遅いと、ソーダも学業や仕事、子育てなどで忙しい時期だったり、独立して実家を離れ、疎遠になっていることもあるでしょう。きょうだい間なら話が通じるので必要性を感じないとか、手話サークルの雰囲気がソーダには少し入りづらいという側面もあるかも。ですから、大人になったソーダが手話をやる・やらないについては本人の選択を尊重してもらえたら嬉しいです。どんな方法であれ、伝え合おうとすることが大切だと思うので。
それぞれの家族にとってどんな形が良いのか、一律の判断は難しいですが、我が家について言わせてもらうなら、家族同士が仲介を要さずにコミュニケーションできる方法はやはり必要で、その方法のひとつとして、せめて指文字や単語レベルだけでも、家庭内に自然な形で手話があれば良かったのかもしれません。子ども時代の私と妹も、目に見える伝達手段が必要だとわかったからこそ、手話の代わりにホームサインを考え出したと思うからです。
次世代のソーダや家族、もちろん聞こえない本人にも、どんな形やタイミングであれ手話とは良い出会いをしてほしいと思っています。

⑧親や周囲の大人とは違って、聞こえないきょうだいに対して「可哀想」という気持ちはあまりありません
聴覚障害に対する周囲の反応は色々です。妹の独特な発音をからかう近所の子ども、それを諌めつつ差別用語を使う大人、ジロジロ見るのに目が合うと視線をそらす人、両親のいないところで聞こえない原因をヒソヒソ噂する大人もいました。妹について「可哀想ねえ」「聞こえないのに頑張ってる」というようなセリフもよく耳にしました。

親も同じようなことを口にしますが、きょうだいは親に比べると「可哀想」という気持ちは少ないかもしれません。私にとっては聞こえない状態が妹のデフォルトで、それをあたりまえとして育ったからです。聞こえる人が大多数の世界で生きていく「大変さ」は年齢が近いので実感としてわかるけれど、哀れんだり悲しんだりする親や周囲の大人とは少し違う捉え方をしていたと思います。
実はソーダにとって一番問題なのは、親戚や知り合いのおばさんたちかも。私は「偉いわねぇ」「しっかりしてるわ」「お母さんを助けてあげてね」とよく言われました。子どもの頃は誇らしい気分でしたが、こういう不用意な発言は、たとえほめているつもりや善意であっても、「我慢しなきゃ」「しっかりしなくちゃ」「お母さんを助けなくちゃいけない」と子どもソーダをじわじわ追い詰めてしまうので要注意です。
⑨親の関心は、どうしても聞こえない子どもに向けられるので、我慢して良い子を演じて育ちました
聞こえない子どもは、何をするにもどこに行くのも家族の中心。同じことをしても片方はほめられ、もう一方は「お姉ちゃんだから」に加えて「聞こえるのだからあたりまえ」と気に留めてもらえない。そんなことが積み重なると、心のどこかに少しずつ無理が生じます。子どもソーダの問題は、傍目にはあまり深刻に見えず、聴覚障害児を育てるという大問題の陰に隠れてしまいがち。でも決して軽視しないでほしいという意味で、ここからは「あるある?」を離れて、私の個人的な体験をお話ししたいと思います。
「良い子」はこうして作られる

イクメンなんて存在せず、ネットで情報も得られない時代。妹を連れて遠くのろう学校や発音指導に通い、家でも読み聞かせや絵カードなど、懸命に課題をこなしていた母には、時間的にも精神的にもまったく余裕がありませんでした。
私は、熱を出せば予定が狂ったと文句を言われる、手伝いの仕方が少しでも気に入らないと怒られる、楽しそうにしていると「あんたはいいわねえ」と嫌味を言われる、母の日にプレゼントしたエプロンは「これ以上働けということか!」と投げつけられる、父に対する不満を涙ながらに聞かされる、といった状況で育ちました。心はもう傷だらけです。階下から聞こえてしまう両親の喧嘩に耳を塞ぎながら、聞かずに済む妹をうらやましいと思っていました。
孤立無援だった母は、いつしか私がまだ子どもであることを忘れ、我慢することや手伝うことを、「当然」あるいは「この子(=私)のためにもなる」と思い込もうとしたのではないでしょうか。「だって聞こえないんだから可哀想でしょう?」そう言って正当化しなければ、やっていけなかったのかもしれません。
平穏に暮らすためには母に迷惑をかけないこと、母の機嫌の良し悪しを見極めることが大切でした。こうなってしまうと、たまに優しくされても、いつまで続くか不安で無条件に甘えることができなくなります。心のどこかで「この人(=母)には頼れない」と思っているような子どもで、可愛げがないのでますます当たり散らされる、完全に悪循環でした。
私の方も向いてほしい、でも母や妹の方が大変だということはわかっているからワガママは言えない。そんなこんなで小学生の頃から白髪がたくさんありましたし、心から楽しむということが苦手で周囲の顔色を窺うことに長けた子どもでした。
ただ成績が上がれば無条件でほめてもらえるので、勉強は頑張ったと思います。

表面上は良い子のまま成長し、進学、就職しましたが、生育歴の影響は、ずっとずっとあとの30代になってから精神的不安とパニックという形で表に出てきました。母と周囲の顔色ばかり気にしているうちに自分が空っぽだと気付いてしまったとでも言いましょうか。カウンセリングに通院もしましたし、長い悩みの時期を経て自分の気持ちに折り合いをつけられるようになるまでに、そこから10年近く要しました。
実は今も仲良し母娘が出てくるCMは苦手ですし、混沌としたうるさい場所はなるべく避けるようにしています。他人と打ち解けるのに時間がかかるので友達は少ないです。縁あって結婚はしましたが、子どもはいません。母と同じことをしてしまいそうで怖かったのです。母に対するわだかまりは解消したわけではなく、今は何とかやり過ごす術を身につけたと言った方が正しいと思います。
ちなみに父は「俺は外で稼いでいるんだ、文句を言うな」タイプで、家庭人としてはダメダメでしたが、母の不機嫌のせいでギスギスした雰囲気をドリフの真似で和ませてくれるような茶目っ気もある人でした。追い詰められてストレスだらけの私を見かねて、外食に連れ出してくれたこともあります。反抗した時期はありましたが、私にとっては貴重な「無条件で頼れる大人」で、成人してからはお寿司屋さんのカウンターに並んで母の悪口を言い合う「同志」のような存在になりました。おかしな父娘関係ですが、私が子ども時代を生き延び、悩みの時期を抜け出せたのは、父のような「逃げ場となる大人」がいてくれたおかげかもしれません。
妹に対しては(子どもの頃にジェラシーを感じたことはあっても)不思議とネガティブな気持ちはありません。大切に愛されて育ち、気配りもできる彼女の人柄もあるし、年齢差のある姉なので面倒をみることに抵抗が少なかったという面も関係するかも。このあたりはソーダでも立場によって違いが大きいようです。
私は「きょうだい児」だった!
自分が「障害者のきょうだい」だと知ったのは、悩んでいた30代の頃です。母娘関係やアダルトチルドレンに関する本も読みましたが、自分の気持ちに一番しっくり来たのは、きょうだい児の記事や文集などでした。障害種別や背景が違っていても、色々なきょうだい児の経験を読むことで、自分の気持ちを整理できたように思います。
ただ「外から見えない」聴覚障害の場合、そのきょうだいが抱える問題も軽く見られがちなので、きょうだい会などの活動には何となくアウェー感がありました。
それでも、苦しさや寂しさが障害の陰に隠れて正当化されてきたのは同じですし、家族観への影響、恋愛や結婚相手へのカミングアウト、責任感や罪悪感などは、どんな障害のきょうだいにも共通すると思うので、若いソーダには(変な言い方ですが)もしそれで気持ちが楽になるのなら、堂々と「きょうだい児」として悩んでいいんだよ、と言いたいです。

「SODAソーダ」という言葉に出会ったのはもう少しあとですが、「きょうだい児」だけでは説明しきれないコミュニケーションに関する思いを共有できる気がして、本当に嬉しかったです。子どもの頃に「○○ちゃんのお姉ちゃん」という付属物ではなく、自分自身の立場として「ソーダです」と言える環境があったら、ずっと楽になれたかもしれません。悩んでいた昔の自分にもこの便利な言葉を教えてあげたい気持ちになりました。