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2018 . 08 . 31

きょうだいも『自分のために生きる道』を選択できる

Sibkotoの運営者のひとりであり、知的障害とダウン症候群がある兄を持つ持田 恭子さん。1996年以来、障害者のきょうだいと意見交換をしてきた持田さんがこれから目指す世界とは。今までの経験を軸に、Sibkotoへの思いをインタビューしました。

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持田 恭子 さん 

持田 恭子さん。1966年生まれ。東京在住。1996年、『ダウン症児者の兄弟姉妹ネットワーク』を開設し、日本各地のきょうだいと意見交換を始めた。2013年、ケアラーアクションネットワークを設立し、毎月1回都内で「きょうだいの集い」を開催。述べ400人以上のきょうだいが参加している。その他に、きょうだい児の子育てや、きょうだい支援を啓蒙する講演も行っている。2017年、電子書籍「自分のために生きる」を出版。2018年4月、Sibkotoの運営に携わる。

いじめられても親に言えなかった


 兄とわたしは、とても仲の良い兄妹でいつも一緒に遊んでいました。手探りで障害児の子育てに奮闘していた母は、わたしを保育園に入園し忘れていて、兄が通っていた特別支援学校の小学部にわたしを一緒に連れて行っていました。そのため、わたしの最初のお友達は様々な障害を持つ子どもたちでした。当時はほとんど言葉を発することができなかった兄でしたが、小学校低学年までは近所の友だちとも一緒に遊んでいました。高学年になると「あの家にはバカがいる」とからかわれて悔しかったですね。その反面、少しずつ兄の存在が恥ずかしいと思うようになりました。

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兄は8歳、わたしは6歳。ゆっくり成長する兄は身体が小さくて、周囲からは弟のようにみられていました。「わたしは妹なのに」と、いつも悲しかった頃。



親子の縁を切ってでも自由になりたかった


 当時はダウン症のある人は短命で20歳まで生きられないと言われていたので、死んでしまうかもしれないと聞くたびに、幼かったわたしは「何かわからないけれど怖い」と感じていました。兄が20歳の時に結核性髄膜炎を患い、本当に短命なのかもしれないと思いましたが、無事に回復しました。それ以来、兄の健康を気遣うあまり、ますます兄を中心とした生活になり、わたしは窮屈さと不公平さを感じるようになりました。
 わたしが25歳の頃、イギリスで仕事をするチャンスを得ました。ようやく自分のペースで生活できることが嬉しくて、このチャンスは絶対に逃したくないと思いました。しかし母は「もし行くなら親子の縁を切る」と言い出しました。当時は、わたしが母と兄を置いて海外に行くことが許せないのだろうと思ったので、親子の縁を切ってもいいと覚悟してイギリスに行きました。いまになって、あの時を振り返ると、もしかしたら母は心細かったのかも知れません。

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みんなで障害者に優しくしようとする社会風潮が大嫌いだった。



きょうだいという言葉を初めて知った


 イギリスでは、障害者とまったく関わらない環境の中で過ごしました。生まれた時から障害のある人々と関わってきたわたしにとって、その環境は自由で開放感があり周囲の反応を見て一喜一憂するストレスを抱えることもありませんでした。
 日本に帰国してすぐにパソコン雑誌に掲載されていたダウン症の親御さん達が作ったホームページを見つけたので、私と同じ「ダウン症の兄がいる妹」に会ってみたくなり、連絡をしました。しかし、そこには「きょうだい」がつながる場がなかったので、自分で「ダウン症児者の兄弟姉妹ネットワーク」というホームページを作り、1996年に公開しました。それがクチコミで広まり、80人以上のきょうだいとメーリングリストで意見交換をし始めました。この時に初めて「きょうだい」という言葉を知りました。ダウン症のきょうだいはそのうちの5%にも満たなかったけれど、複雑な思いを抱えているきょうだいが他にもたくさんいることを知り、将来のことについて悩んでいたのは自分ひとりじゃなかったんだと安心しました。

自分の人生を楽しみなさい


 仕事でアメリカに出張に行く機会が多くなったわたしは、病児のきょうだい児支援Sibshopの主催者であるドナルド・マイヤー氏の職場を訪れて、彼がきょうだい児支援を始めたきっかけについて話しを聴きました。アメリカでは病児や障害児のきょうだい支援が整備されていることに羨ましさを感じましたが、大人になったきょうだいが集まる場所やチャンスがあまりないことを知りました。
 その頃、ビクトリアという女性を紹介していただきました。彼女の弟さんはダウン症で重度の知的障害があり、話すことができませんでした。わたしは彼が入居していたグループホームを訪れて一緒にバーベキューや風船遊びをして交流を深めました。そこはニューヨーク近郊でしたが、障害者が共同生活をするグループホームを建設することに地域住民が猛反対をしたそうです。海外でも知的障害者や精神障害者に対する差別があることを知り、衝撃を受けました。
 メーリングリストを介した意見交換に行き詰まりを感じていたわたしに、ビクトリアは「あなたは、40代になったら必ずきょうだい支援の世界に戻ってくる。いまは自分の人生を楽しみなさい」とアドバイスしてくれました。せっかく集まってくれたきょうだいに申し訳ないと思い、何か月も悩んだ末に、メーリングリストを休止しました。

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メーリングリストを休止した時はとてもつらかった。



想像以上に苦しかった多重介護


 ちょうど同じころ、大腸がんが見つかった父の闘病が始まり、それから2年後に父は旅立ちました。その後しばらくは、わたしが父親代わりをしていましたが、2007年に母が倒れ、在宅介護をすることになりました。仕事と介護と兄の見守りを両立することは想像以上に苦しい毎日でした。2010年、椎間板ヘルニアを発症したわたしは、このまま在宅介護を続けることに体力的な限界を感じ、母と兄を別々の施設に入居させました。親子を引き離した罪悪感と喪失感が大きなストレスとなり、わたし自身が介護うつを発症して投薬治療を受けました。自力で認知行動療法を取り入れてうつ病が完治した1年後、わたしは結婚しました。母と兄の面倒を見過ぎているところを指摘してくれる夫のおかげで、客観的に家族のことを考えられるようになりました。

コミュニティを作る


 2013年、ビクトリアが言っていた通り、わたしは40代で新たなきょうだいコミュニティを作る準備を整えました。同時期にケアラー連盟の存在を知り、初めて「ケアラー(無償で家族をケアする人)」という言葉を知りました。そこで「ケアラー(介護をする誰もが)が自ら行動(アクション)を取り、繋がり合う」という思いを込めて、ケアラーアクションネットワーク(CAN)を立ち上げました。

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CANのパンフレット



きょうだいの集い


 2014年、「きょうだいの集い」を始めました。ここでは、きょうだい同士がペアになって自己紹介をした後、みんなで意見交換をします。話すこと、聴くこと、考えることを通して、今まで誰にも言えなかった気持ちを整理したり、相手の話を聴きながら、自分の思いを言語化していきます。年齢制限はなく、何らかの生活支援を必要とする人々のきょうだいであれば誰でも参加することができます。いまでは、北海道から沖縄まで日本全国から、時には海外に住んでいるきょうだいも参加します。

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きょうだいの集いの様子。みんなで関心のある話題について話し合ってます。



CANのアウトドアプログラム


 CANでは、戸外でのバーベキューや、きょうだいのための合宿(シブキャンプ)などのアウトドアプログラムも開催しています。家族のこと、兄弟姉妹のこと、障害のこと、自分のことを自由に話せる環境を作り、いちいち障害のことを説明しなくてもいい、誰からも差別を受けない環境の中で、あるある話ができて、気軽に楽しく話せるコミュニティづくりをしています。来年は『きょうだいフェス』を開催することを目指しています。

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CANアウトドアプログラム。きょうだい仲間との大切な時間。



Sibkotoの可能性


 きょうだいの集いには、参加したくても参加できない遠方に住むきょうだいもいます。そのため、CANを立ち上げた当初から、きょうだいの気持ちや悩み事を集めたホームページを作りたいと思っていました。きょうだい5人と共に、このSibkotoの運営に携われることに感謝しています。Sibkotoは匿名で投稿するので、どこにいても読んだり書いたりできる自由さがあります。わたしはSibkotoがきょうだいのロードマップになっていくことを目指し、もっと会員を増やして多くの方々に「きょうだいの声」を届けたいと思っています。
 親と障害のある子どもが依存し過ぎず、お互いに自立することができたら、きょうだいも自分のために生きる道を選択することができます。わたしは、CANの活動を通して、生活支援を必要とする人達の家族を支える活動を続けていきます。また、『きょうだい支援』がケアラー支援の中に組み込まれ、きょうだいにも必要な社会福祉に関する情報が提供されるように働きかけていきます。

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