京都でのきょうだい会の歩み[寄稿]
京都きょうだい会の副代表であり、小頭症の妹2人がいる糸井慶一さん。糸井さんの体験や思い、京都きょうだい会の活動について寄稿して頂きました。

糸井 慶一 さん (京都きょうだい会 副代表)
1949年生まれ。京都府在住。京都「障害者」を持つ兄弟姉妹の会(京都きょうだい会)副代表。全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会地域スタッフ。社会福祉士。元地方公務員で、福祉事務所や知的障害者更生相談所でケースワーカーとして長く勤務していた。
私のきょうだい会との出会い
2人の妹に小頭症が原因の最重度知的障がいがあって、高校時代は、「自分のような立場の人間は他に誰もいない。自分はこの先どうなるのだろう?」と悩み、1年間クラスの誰とも話をしない時期がありました。ところが大学に入学した年に下の妹が施設入所し、面会日に他のきょうだいの姿を何人か目にすることになり、一人で思い込んでいた自分は何だったのか?と自分の世界の狭さを思い知らされました。同時に、このような思い詰めた経験をしなくても済むように、きょうだいが集まれる場が必要だと強く思いました。1969年、施設の親の会会長から「親の会青年部」を作ることを勧められたのが私のきょうだい会のスタートです。その後、1983年に京都育成会にあった兄弟姉妹の会と合同して「京都きょうだい会」を立ち上げ、現在に至ります。その時に出会った梅田さんとは50年近くの付き合いになり、相棒的存在です。

糸井さん(写真左)と梅田さん(写真右)
大人になるまでのきょうだい体験
私が当事者としてのきょうだいを認識したのは、小学校の入学式を控えた1週間前でした。2人目の妹が上の妹と同じ小頭症で生まれ、母と2人の妹は半年間検査の為入院することになりました。両親は共に混乱のさ中だったと思います。私は家族から半ば取り残された状態で、初めての学校生活なのに十分なフォローが無く、ぼう然とした思いの日々が続きました。「家の中で何か大変なことが起きている。この先どうなるのだろう?」という不安がいまだに残っています。その後、妹は年々成長しましたが、就学年齢になっても最重度の知的障がい児を受け入れてくれる学校は無く、就学免除とされ在宅が長く続きました。母が買い物に行く時、私はよく留守番をさせられ、2人の見守りや排せつの後始末をしていました。妹の世話や友達と遊ぶ約束が出来ないのは辛かったけれど、反面、役割を与えられることで得意になっていた自分もいました。一番こたえたのは、妹を連れて外出した時の世間の冷たい目でした。顔が人の半分近くの大きさしか無く、目立つ障がいでした。人の不幸を面白がる社会への憤りを抑えられず、寝る前に布団の中で声を押し殺して「ひとり弁論大会」をしていました。
中学になると、「妹の力になろうとする気持ち」の一方で、「うとましく思う気持ち」があることに気づき、自己嫌悪に陥ることが多くありました。大人になって心理学の本を読むと、この両極端な気持ちはアンビバレントという言葉で説明されています。
高校時代には進路選択を迫られます。誰にも相談出来る人が無く、「家庭の経済状態を考えると、大学には公立しか行けない。遺伝のことも気になり、結婚はきっと無理だ。だから女性を好きになってはいけない。」と自分に言い聞かせ、心を閉ざしていました。「一人で頑張ること」、「良い子でいること」に疲れ、いっぱいいっぱいでした。
大学に入学すると受験の重圧感から解放され、つかの間の解放感が得られました。自分の置かれた問題をどうとらえればよいのか考える時間が持てたことは、貴重でした。妹が施設に入所した機会に、自分だけでは無い事が分かったこと、きょうだいの会を作ることを目標にしようと思えたことも大きいことでした。家庭ではいろいろな変化があり、下の妹の施設入所・父の病死・上の妹の入所など大きなことが起きた時期でもありました。しかし卒業を前にしても、就きたい仕事が見つからず、実家から通える無難な選択をし、なんとなく地方公務員になりました。(後から振り返ると、人事異動でケースワーカーの職に就くことが出来、障がい者の制度についていろいろ学べて良かったのですが、中途半端な卒業の仕方でした。)

きょうだい会は手探りでした
親の会の会長に青年部を作って欲しいと背中を押されましたが、どう進めて良いのかが全然見えませんでした。集まっても2~3回目で後が続きません。会はみんなで作るものだ、互いの関係作りが重要なのだということに気づくまで、時間がかかりました。ようやく参加者が定着して来ると、今度は気負いが出て来ました。施設や親の会では出来ないことをやろうと、機関紙の発行や勉強会、施設見学などを親や職員さんも巻き込んで取り組みました。しかし小さな施設だったので、何かと制約や干渉があり行き詰まりを迎えます。その後全国きょうだい会や神戸きょうだい会とのつながりが出来、施設の中だけでは限界があることを教えられ、京都育成会の兄弟姉妹の会と合同して京都きょうだい会を立ち上げることになりました。

1983年の設立当時から使用している、京都きょうだい会のロゴマーク
模索は続きました
京都きょうだい会を立ち上げて40年近くになりますが、きょうだい会は何をすればよいのか・・・?「きょうだい会像」を探して来た40年でもありました。当初は、きょうだい会の存在をアピールすることが大事だと思い、他の団体が取り組めていない活動・・・例えば通所障がい者の余暇活動や、施設間のネットワーク作りの場としてのバザーの開催、新しい施設の在り方を探るシンポジウム開催など、力量以上のことにチャレンジしました。イベントが終了するたびに、会が目指す活動はこれでよいのか、疑問がいつも残りました。
報道機関の取り上げ方も、「きょうだいは社会資源」という視点が強調され、ズレを感じました。私たちの側も、マスコミや諸団体に認められたくて「良い子」の顔を見せようとしていたところがありますが、「きょうだいも当事者なのだ。支援が必要なのだ。」ということを言葉に出来ていませんでした。
長い間、会員がなかなか増えず、会の意義が見えなくなった時期が続きました。「子育てや仕事で忙しい中、自分は何をやっているのだろう・・・?本当にやりたかったことは、何だったのだろう?」という問いかけが、自分の中でもスタッフの中でも繰り返されました。ただ「いつでも語り合える例会は残しておかなければ・・・」の一点でふんばっていました。

京都きょうだい会の例会は、京阪電鉄深草駅すぐそばの喫茶みどりの会議室にて、20年近く開催されてきた。現在は、原則、奇数月の第二土曜日に例会を行っている。
当事者の会として
会の活動がマンネリ化していた頃、会員のきょうだいが行方不明になり、会員からSOSが求められた時、会全体として動けず、個人単位の支援しか出来なかったことがありました。この時、よそのグループ活動の経験があった新しいスタッフから、「誰の為の会なのか?日常のつながりこそ大事なのではないか?」との原点に触れる問題提議がなされ、はっとさせられました。古いスタッフでは見えなかった発想があったのです。これまでの活動を見直し、身近な目標を立てようということになり、障がいのあるきょうだいと一泊旅行を始めました。この企画は、障がいのあるきょうだいを見直す良い体験となり、以後毎年恒例のイベントとなりました。やがて、行き先を新しく出来た「でてこいランド」という宿泊施設に変え、全国からきょうだいが個人や家族ぐるみで集まれる交流の場へと発展して行きました。

2018年9月、京都でてこいランド1泊2日交流会の様子。北海道・宮城・群馬・東京・石川・京都・大阪・岡山・広島・福岡から、きょうだいを中心に、きょうだいの配偶者や子どもたち、支援者を含め、計20名の参加があった。
例会にも変化が見られるようになりました。10年ほど前、きょうだいの立場の学生さんが3~4人まとまって来られたことがあり、新しい世代が率直にきょうだいの思いを語る言葉に刺激され、次第に例会がカミングアウトや傾聴がしやすい雰囲気に変わって行きました。背景には、大学できょうだい支援の研究が進んでいたこともあったと思います。
そうした中で若い世代の間で横のつながりが出来、2~30代のサークル「しろくま会」が生まれ、懸案だったホームページの開設も実現しました。機関紙やマスコミ頼みだった従来のやり方が格段に変化し、タイムリーな情報が発信され、新しい参加者が自然に増えて行きました。セルフヘルプグループの充実のためのルールなど、若い世代から教えられることが多く、会が活性化して行きました。ようやく、当事者の思いが語りやすい会になって来たなと感慨深く思っています。

(なお、でてこいランドは、2019年5月をもって閉館となりました。新たな交流の場を目下探しているところです。)
改めてのメッセージ
きょうだい会を意義を持つものにするには、長い時間と大きな壁がありましたが、会の中で多くのことを学べた気がしています。「自分一人がしんどい思いをしていると思っていたことは、自分の認識が狭いだけのこと」でした。「自分の向き合っている課題は、どういうことなのか?少し距離を置いて冷静に考える事」、「追い詰められている時は休息が必要な事」、「支援を求める事の大切さ」などについても。会に関しても、「運営はみんなで取り組むもので、一人よがりではいけない。少数のスタッフだけで悩むべきでなく、新しい意見や発想を取り入れることが大切だ」ということにも気づかされました。
きょうだい会は、きょうだいの障がいの状況・きょうだいの順序・人数・同性異性の別・親の状況・個人の考え方・世代などが異なる多様な人の会です。しかし同時に共通性もあります。障がい者の自立という、家族だけでは抱えきれない問題を前にして、きょうだいとしてどう向き合えばいいのか?そのことをカミングアウトしたり、考え合える場としての意義はとても大きいです。
「きょうだい支援」活動を、本当に一人一人のきょうだいに届くような中身にしたい。そして「きょうだいだからこその気づきの発信」もして行きたい。胸にしまっておくだけでは、何の為に生きてきたのか分からない・・・。今、そんな心境でいます。

2019年2月、第5回全国手をつなぐ育成会連合会全国大会の分科会の様子。全国大会で初めて「きょうだい」が取り上げられ、来場者は約130名にもなった。シンポジスト席の右から3番目が糸井さん。自身のきょうだい体験について語った。
京都きょうだい会(京都「障害者」を持つ兄弟姉妹の会)
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