2019 . 04 . 26
きょうだいの絆 ~障がいのある弟とともに歩む~[寄稿]
自閉症の画家として知られる太田宏介さんを弟に持ち、現在は弟の作品の販売も手がける絵届け問屋「kousuke」代表の太田信介さん。今回の記事では太田さんの生い立ちや結婚、弟の作品の販売を手がけるようになるまでの思いや体験談を寄稿いただきました。

太田 信介 さん (絵届け問屋「kousuke」代表)
絵届け問屋「kousuke」代表。1974年生まれ 福岡県在住。2012年3月に15年務めた会社を退職し、次月の4月に弟の自閉症の画家である太田宏介の作品を使用し、絵画展企画・絵画レンタル・デザイン提供、絵届け問屋「kouuske」を創業。日本各地で展覧会を開催。現在、全国きょうだい会地域スタッフ、福岡きょうだい会で活動中。
弟の存在を隠し続けた過去
私は3人兄弟で、年子の姉と7歳下の弟がいます。弟が2歳の時に知的障害を伴う中度の自閉症と診断されました。9歳できょうだいになったのですが、私は28歳まで、弟の存在を隠し続けました。自宅は新興住宅街で、また私の年代は第2次ベビーブームと言われる世代で、とにかく家の近所は同級生が多かったです。弟は自閉が強く、近所に迷惑をかけていました。友達から直接、「うるさいね」や「将来どうするの?」と言われた事もあります。小学生では答えることが出来ず、家に帰っても、父は下を向いて酒を毎晩飲んでいて、相談できる雰囲気ではなくなったので、隠すようになりました。
結果として良かった7歳差

私は弟のことが大好きです。
7歳違うので、弟が生まれた時は可愛かったし、嬉しかったです。今でも我が子の感があります。
ただ友達に弟の説明が嫌で、高校はわざわざ自転車で1時間かかる県立高校に通い、大学も隣の県である熊本の私立大学に行きました。
唯一、兄として弟に教えてあげたことがあります。高校の時に、休みの時にバスや電車を弟と一緒に乗りに行きました。弟は、電車とバスが好きだったので、「弟を楽しませよう」と思って、初めは周囲の目を気にしながら、乗りに行きました。弟はバスの営業所に行くと、1時間以上いても帰ろうとしません。楽しかったのでしょう。電車やバスに乗っている間は、ずっと黙って外の景色を見ています。次第に自分で切符を買えたり、電車の行き先が分かって来たりして、私も嬉しくなりました。今では、チャージも出来ますし、一人でバスも電車も乗れます。
成人式に父に言われたこと

中学の頃、私には短い反抗期がありました。そんなに人に迷惑をかけてはないと思いますが、高校受験前のなると、弟と会話もしなかったり、挨拶もしない時期があったそうです。私は、覚えていません。
私の成人式の日に父から、あの頃の私をみて「長男がこんな感じだから、弟を殺して俺も死のうと思った」と言われました。さすがに両親に申し訳ないと思いました。また、両親の想いも分かった気がしたので、弟に対する思いやりが必要だと感じました。
転機が
大学卒業後、福岡県に本社にある、全国展開するパチンコ店を運営する企業に就職します。15年間勤務し16回の全国転勤をしました。努力が実り、28歳で店長になり、パチンコ台の釘を叩く、釘師にもなりました。
店長になり初めて就任した店舗が大型店で、1日売上2000万以上、年間73億円を売上の店舗でした。さすがに大抜擢とはいえ、店舗の従業員100名との人間関係や、店舗と本社の間に立ち、心身ともに疲弊する日々を過ごしていました。
そういう時に、久しぶりに実家に帰ると弟が「おにいちゃん、お帰り!」と真っ先に言ってくれました。実家は、弟の絵が飾ってあり、自由で迷いのない線と固定概念に捉われない構図と色彩を見て、本当に感動しました。「自分は小さいことで悩んでいるのではないか?」「弟のように自由に大胆に生きていいのではないか?」と思うようになりました。
そこから私は、大事な人には弟のことを伝えようと思いました。

その年の2002年に、福岡市美術館でルソー・ピカソ・山下清・岡本太郎などの展示をした「ナイーブな絵画展」が開催され、そこで福岡の新進作家として弟が選ばれ、草間彌生の横に展示されました。
まだ弟は21歳でしたが、その時に「弟は画家になる」と思いました。そして、私はいつの日か会社を辞めて、弟の絵を使って事業をしようと思いました。

結果としては、実現しましたが9年かかりました(笑)
結婚
6年間交際した女性と結婚するかと思っていましたが、相手の親に反対され破談になりました。(弟が理由ではなく、相手が首都圏の人だったので九州との距離の問題)
改めて30歳を過ぎると結婚を意識しますので、恋愛も難しく感じました。当然、弟に障がいがあることも、結婚となると理解してもらえるかも心配要素でした。ただその前に、女性に連絡先を聞いたり、食事を誘うタイミングを考えすぎるようになっていました。20代前半では気軽に出来た事が、出来なくなった自分がありました。30代になると無駄にプライドが高くなったり、自分が傷つくことを恐れたりして、一歩踏みこめない自分がありました。
それを「恋愛が上手くいかないのは、弟のせいだ!」と思っている自分がどこかにいたと思います。
その考えをある日、止めました。その理由は、自分の恋愛が上手くいかない理由を、弟のせいにしている自分に気づいたからです。確かに、障がいのある弟がいるのはネガティブな要素だと思いますが、自分が女性からフラれるのを恐れているだけのような気がしました。「誠意をもって女性と接して、カミングアウトして難しいのであれば、縁がなかった」と思うようにしました。
33歳で出会った女性が妻で、翌年に結婚し、現在子供が9歳と4歳です。
脱サラ

37歳で脱サラをし、弟の事業を始めました。いろんな方に反対されました。ただ、9年前から考えていたことなので、迷いはありませんでした。
妻には、結婚する前から伝えていました。店長時代のほうが、はるかに給与は高いのに、文句を言わない妻に感謝しています。
開業当初は苦労しました。福岡では弟を知っている人は多かったとは思いますが、年に1回個展を福岡でするぐらいで、事業としては全くの未経験です。私はパチンコ店の出身で、大学時代もバイトはパチンコ店だったので、パチンコ店でしか働いた経験もありません。営業もしたこともなく、大変でした。
おかげさまで、今月で丸7年が経ちます。ここまで続いたのも、弟の成長と人との縁だと思います。感謝の気持ちでいっぱいです。
きょうだいの活動

福岡県糸島市社会福祉協議会講演の様子
きょうだいの活動を頑張っています。きっかけは、全国各地で弟の展覧会をするのですが、障がいのある家族さんも多く来られます。親御さんから、「お兄さん、結婚していますか?」とよく聞かれます。私は「結婚をしていまして、子供も2人いますよ」とお伝えすると、親御さんは、きょうだいが結婚をしないことをご相談されます。このやり取りが、毎回どこの地域にいってもあるので、「きょうだいのことで、自分が何か役に立つことがあれば」と思い、きょうだいの活動を始めました。
また、「きょうだいの絆」というテーマで講演もさせて頂いています。内容としては、今まで長々と書いた内容です。
質疑応答では、「弟がいないほうが良かったと思ったことはないですか?」や「弟が絵を描いてなかったら、今の気持ちと変わりませんか?」という質問も受けます。私は、正直に「弟がいないほうがいいと思った時期もあります」「絵を描いてなかったら、当然この仕事もしてなかったと思いますし、ここまで弟に献身的になってないのかもしれません」と答えています。
私は、「きょうだいの絆」を押し付けようとは、はたから思っていません。私は、福祉の人間でもなく専門家でもないのですし、一個人の想いです。ただ、一つ思うのは、「障がい」という要素は、確かにネガティブだと思います。だからといって、一人で悩んだり不安だったりして解決するのでしょうか?一人では難しいのではないでしょうか?だったら、同じきょうだいとのコミュニティの場があって、少しでも前向きになれる方向にいけたらと強く思っています。それが、きょうだいの活動だと思っています。
日本全国各地に、きょうだい会が出来て、きょうだいが生きにくい人生から、生きやすい人生になるために、今後も活動を頑張りたいと思います。

私の母校 福岡県立柏陵高校 創立記念講演
これから
4年前に父親が他界しました。
69歳でした。
長男としては、プレッシャーになっているかもしれません。
ただ、「親はずっとは、いないんだなぁ」と思いました。母親が弟の才能に気付き、育ててきました。父親には、まだ弟の更なる飛躍を見せれることが出来なかったので、母には海外個展という、もっと高いステージを見せてあげたいと思います。

きょうだい会みやざき発足イベント

リーガル新作発表会会場にて
自閉の画家、太田宏介が後世にも語られるような画家を目指して、今後とも弟と共に頑張っていきます。
そして日本各地できょうだい会が存在し、きょうだいが悩みを共有できるコミュニティができるように、今後もきょうだい会の活動をしていきたいと思います。