2019 . 03 . 12
きょうだい会SHAMS運営者の体験や思い
きょうだい会SHAMSの代表であり、双子の弟に知的障害と自閉症がある滝島真優さん。滝島さんの体験や思い、きょうだい支援プログラム「シブショップ」との出会い、SHAMSの活動についてインタビューしました(担当:Sibkoto運営者 松本理沙)

滝島 真優 さん (きょうだい会SHAMS代表)
2008年、栃木で病気や障害のある子どものきょうだいを対象とした「きょうだい会SHAMS」を立ち上げる。2008年に熊本、2016年にシアトルにて、シブショップファシリテータートレーニングを受講。きょうだい会の活動を行いながら、大学にて社会福祉士の養成や、学齢期のきょうだい支援、発達障害者の就労支援に関する研究に従事している。
気づかないうちに寂しい思いをしていた幼少期
私は2人きょうだいで、双子として生まれた弟が自閉症の診断を受けています。3歳児検診の時に自閉症の傾向があると言われたのですが、療育が進んだ地域である横浜にたまたま住んでいたのは運が良かったのかなと思います。弟は診断を受けてすぐに療育センターに通うようになり、弟が中心の生活が始まりました。
私は、最初、保育園に通っていました。当時、保育園で在園時間が後ろから2番目くらいに長かったんですよ。だから、お漏らししちゃったり、昼寝が出来なくてずっと起きていたりしていました。今思えばですけど、親が弟を療育センターに行く送り迎えの時間が長くなって、私の在園時間が長くなった分、どこかできっと寂しさとか、やりきれない思いがあったのかもしれないですね。
それで、親は生活を変えなければと思ったようです。私を近くの幼稚園に転園させて、先に私を幼稚園に送ってから、弟を療育センターに送って、私を幼稚園に迎えに来てから、私も母と一緒に弟を療育センターに迎えに行くという生活になりました。
療育センターに行った時、先生方が「○○くんのお姉ちゃん」ではなくて「真優ちゃん」と名前で呼んでくれて、私のことをすごく気にかけてくれて、一緒に遊んでくれました。親と一緒にいられる時間も長くなったので、保育園から幼稚園に転園してからは、楽しい思い出しかありません。でも、保育園に通っていた時のこと、弟が診断を受けた当時、ちょっと寂しい感情があったという記憶は残っていますね。
障害のある子どもたちと一緒に過ごすことが当たり前
自閉症のお子さんと障害のないお子さんが一緒に教育を受けることができる学校がありまして、その学校法人は、アメリカのボストンに姉妹校を持っていて、芸能人の方がドキュメンタリー番組で訪問することを年1回やっていたんですよ。それをたまたま両親が見て、専門的な教育を受けられるなら弟に合うんじゃないかと考えたようで、幼稚園の年長の時に受験をし、私と弟一緒に転園しました。2、3年の間に3つ、保育園1つと幼稚園2つ通ったので、ちょっとバタバタしていた記憶があります。
小学校には、当時は普通クラス(障害のないお子さんが中心のクラス)と自閉症クラス(自閉症のお子さんのみがいるクラス)がありました。その当時は棟が分かれてたんですけど、私は普通クラス、弟は自閉症クラスに入りました。普通クラスの中にも、1クラス25人中、2、3人くらい自閉症のお子さんがいたんですよ。弟と似たような、少し不思議な行動をしている子だったので、「きっと弟と同じなんだろうな」と小学1年生の頃は感じていました。このように毎日、家に帰っても学校に行っても、自閉症のお子さんがいることが当たり前という、ちょっと特別な環境で育ってきました。
弟は、小学2年生の時に普通クラスに移行することになったので、2年生を2回経験しているんです。2年生を終えた段階で、普通クラスに移行したので、1個下の学年に弟がいる形になりました。私が3年生の時に、弟が2年生。弟が普通クラスに移行してからは、棟も同じになったので、弟を見かける回数も頻繁になり、素直に嬉しいなと感じました。また、弟のことをよく知っている先生が「○○くん頑張ってるよ」と声をかけてくれて、ちょっと安心したような記憶があります。
自分のクラスの中に、弟やお姉ちゃんが自閉症クラスにいる子や、他の特別支援学校にダウン症の妹さんがいる子が同じクラスにいました。いわゆる「きょうだい」の子が、クラスに3人位はいたので、「兄弟に障害があるのは自分だけじゃないんだな」というのは、なんとなくそこで分かりました。
また、小学校低学年の時の担任の先生が、今でいう「きょうだい会」のような場を作ってくれて、本当に良い先生でした。私や他のきょうだいのクラスメイトに対して、普段からよく声をかけてくれて、きょうだいの子と先生と一緒に遊ぶ時間を作ってくれたり、目をかけてくれていました。今思い返すと「そういうことだったのかな」と、大人になってから気づきました。
社会とのギャップに悩む

小学校の中では、すごく心を配って下さった先生達が周りにいたので、嫌な思い出や、排除されることは全くありませんでした。ですが、小学3年生になると・・・今のきょうだい会の活動の中でも感じていることなのですが、9歳位の壁ってありまして、他者との違いを敏感に感じやすくなってくるんですよね。
小学校の中は守られていて安心・安全だったんですけど、一歩社会に出ると、弟の行動に対する視線が異様に冷たく感じて、ギャップが凄かったですね。家でも学校でも理解がある環境だったので、余計に社会の視線が冷たく感じて、そういった視線から弟を守ろうとしました。学校も一緒に通っていたので、視線を送る人を見ると睨みつけたり、反発心みたいなものがすごくありました。
そういう視線はすごく嫌だなと思っていましたが、親に言うと、親も悲しむかなと思って言えませんでした。また、通学路の途中で起きたハプニング、例えば、勝手にキヨスクの飲み物をお金を払わずに取ろうとする、そんな弟の行動を自分が止めていたこと、弟の歩き方を通りすがりの高校生に真似されたことなどは、親には報告しなかったです。自分の中で収めようとしていました。
弟に対しては、冷たい視線から守りたいという思いもある一方で、すごく恥ずかしいという思いもその頃から出始めていました。なので、通学中、弟と離れて歩いてみたりもしました。でも、離れて歩くと、余計に弟が周りと違うと感じて、やるせない気持ちが強くなっていきました。小学3年生位からしばらく辛かったですね。
両親が用意してくれた「内緒の日」
母はずっと弟についていました。父は単身赴任が長かったので、時々母方の祖母が実家に来てくれて、私はどちらかというと祖母と一緒にいました。
弟とは途中で1学年離れたことで、学校行事が重ならなくなりました。弟の宿泊学習の時は弟が家にいないので、私が親を独り占めできました。その日は父も会社を休んでくれて、「内緒の日」と称して、私の好きなところに連れて行ってくれたり、食べたいものを食べさせてくれる日が、1年に1回あったんですよ。それですごく満たされた思いがあって。たった1年に1回かもしれないですけど、親を独り占めできた、自分のことだけを見てくれる時間があったっていうのは、今思うと大きかったですね。
父は単身赴任先から帰ってくると、遊んでくれたり話をよく聞いてくれたし、なるべく私の行事にはちゃんと参加してくれたので、弟と平等に接してくれたという印象があります。また、両親は、弟の行動に対して疑問に思った時に、「どうしてこういう行動をするんだろう?」って言うと、自分の理解に合わせて説明をしてくれました。だから、親に対して反発したことは、小学校の時にはなかったですね。