2019 . 01 . 11

あなたが「子ども」でいられるように

難病の肥大型心筋症を患う弟とともに思春期を過ごした清田悠代さん。NPO法人しぶたねの立ち上げまでの経緯や今後の活動について伺いました。

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清田 悠代 さん  (NPO法人しぶたね代表)

2003年、小児がんや心臓病など重い病気をもつ子どもの「きょうだい」をサポートするボランティアグループ「しぶたね」を立ち上げ、2016年にNPO法人化(Webサイト)。現在は大阪の病院での活動や、子どもきょうだいのためのワークショップの開催に加えて、全国できょうだいのための冊子の配布や講演活動、きょうだいの応援団を増やしつながるための「シブリングサポーター研修ワークショップ」等を行っている。

難病・肥大型心筋症の弟


 私の家族は、両親と私と4歳下の弟の4人家族です。弟が心臓病だとわかったのは弟が小学3年生、私が中学1年生のときでした。先天性の病気なので、生まれたときから心臓が悪かったのではと思うのですが、ずっと普通に生活していて、ある日友達との鬼ごっこの途中で突然倒れてしばらく意識をなくすということが起こり、いくつか病院を周って検査をしたところ、半年ほどかかってやっと肥大型心筋症という心臓病だとわかりました。肥大型心筋症という病気は、心臓の壁が厚くて、風船が分厚いと膨らませるのが大変じゃないですか、それと同じ原理で、全身に血液を送るスピードが速くなると心臓に負担がかかって止まってしまう病気なんだと、父が心臓の絵を描きながら説明をしてくれました。治療や手術で完治するようなものではなく、薬を飲みながら、心臓に負担がかからないよう運動を制限して一生付き合っていくタイプの病気だと聞きました。弟はいつ心臓が止まって倒れるかわからないため、常に誰かの付き添いが必要で、専業主婦だった母親が、毎日一緒に学校に行って教室の後ろから見守ったり、保健室で待機していたようです。そのため、少しでも弟の学校の近くにいられるようにと、我が家は2回引っ越しました。
 
 子どもの頃は喧嘩も多かったのですが、弟の病気がわかってからは、私の気の持ちようが変わったからか、お互い大人になったからか、すごく仲の良いきょうだいになりました。いつ倒れてもおかしくない弟は1人で外出できず、小さな感染症でも命に関わるので人の多いところにも行けなくて、毎日家と学校の往復で、外との接点が私くらいしかなくて。だから私が帰ってくると2人でゲームをしたり、いろんな話ができるので楽しみに待っているし、私は弟が可愛くて仕方ありませんでした。

「あなたが弟を守っていくんだよ」


 それでも、私の家族は弟を中心に回っているんだなって感じるときがありました。弟の病気がわかったときは私は中学1年生だったのですが、そのときの両親と私との家族会議で「あなたはもう中学生で、子どもじゃないんだから、一緒に弟を守れるよね」と言われて、私の子ども時代がこの日で急に終わったり。弟が修学旅行のときは両親が一緒について行って私は家で一人で留守番をしていましたし、あと、1995年の阪神・淡路大震災のときに、2階建ての家の1階部分が潰れて1階にいた人が亡くなってしまうという被害がたくさんあって、それで私の家でもなるべく2階で過ごそうということになったのですが、体調を整えるために規則正しい生活をしないといけない弟に対して私は遅くまで受験勉強したいということもあって、私だけ1階で寝ていました。両親は2階にいた方がいいよとは言ってくれなくて、このときは「ああ、弟の命には価値があって、私には価値がないんだな」と感じていました。私の成人式のときも、弟が成人するなら嬉しいしお祝いするけど、あなたが成人するのは当たり前じゃない、って言われて成人式らしいことは何もしなかったし…なんだろう、普通に優しい両親だったのに、時々「あれっ?」と思うことがあるんですよ。大人になって振り返ると、もっと子どもでいたかったなあと思う気持ちや、もっと親ばかみたいなことをしてほしかったなあと思う気持ちもあるのですが、当時の私には親に対する不満や恨みというのはあまりなくて、「弟の命を守ることが一番大事」と私自身も思っていたのと、こうしないと家が回らなかったんだろうな、仕方なかったんだろうな、というあきらめの気持ちだったなと思います。

普通の子とは違う世界で生きている


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 高校受験は通るかどうかギリギリのところの進学校に進もうと思って必死に取り組んでいました。でも、受験の2日前に弟が心臓が止まって倒れてしまったので、その日にあった受験説明会には行けなくて。受験の日に会った友達に「一昨日どうして来なかったの?」って聞かれたときに、弟が救急車で運ばれて、今も生死をさまよっているって…これから大事な受験のある友達には言えない出来事で。「お母さんが受験に勝つようにお弁当にカツ入れてくれてる」「私は消化にいいようにサンドイッチにしてもらった」と話す友人達と、今にも弟が死んでしまうかもしれなくて、両親は弟の病院にいて、コンビニで買ってきたパンを味も感じられずに食べている自分…この時初めて「私って 病気の子の”きょうだい” なんだな」「私はこの子達とは違うんだ」と思いました。生きるとか死ぬとかって哲学的な部分もあるじゃないですか。どうしてうちの弟が病気になったんだと思う?それって何か意味があるのかな?とか、弟が死ぬことがすごく怖いと思っていることとか、友達にとっては重たい話だと思うから話しづらい。そういう真剣な話をしたいけど話せる友達はなかなかいなくて、その部分は孤独だなと感じていました。高校の卒業式の打ち上げも、すごく楽しみにしていたんですけど、母が風邪をひいて、弟と2人だと不安だから私に家にいてほしいと言われて、急遽行けなくなってしまって…友達に行けなくなったと理由を言ってもすぐわかってもらえなくて、こういう悲しさを共有できる人がいなくて辛かったですね



進路への影響


 高校受験のときに進学校を目指していたのは、医者になりたくて、私が医者になって弟を治すという…きょうだいあるあるですね。高校時代は、病院のソーシャルワーカーになりたいと思っていて、大学は福祉学部を目指しました。両親はあまりいい顔をしませんでした。というのも、私が弟の病気と関係するような進学をすると、弟がそのことを負担に思うんじゃないかと。つまり、弟の病気のせいで私が進路を決めたように見えると弟が後ろめたい気持ちを抱くだろうからやめてほしい、ということですよね。なので、高齢者福祉に興味があるとうそをついて、福祉関係の学部に進学しました。
 大学受験は一度やり直しています。現役のときは母親からここの大学ならおばあちゃんの家から通えるし、いいんじゃない?って勧められた東京の大学を受験しました。でも、いざ合格して、準備をしようってなったときに、母親の顔がだんだん雲って、「本当に行くの?」って言われてしまって。本当は憧れの先生がいてすごく行きたい大学だったのですが、母の気持ちもわかるし、咄嗟に「行くわけないやん」って言ってしまい、1年を棒に振る形になりました。

弟と暮らすつもりでいるから結婚できないのか


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 弟とはずっと一緒に暮らすと思っていました。だから付き合っている人には弟の話をしていました。でも、重い、無理って言われちゃう。私は弟が好きだったので、弟の存在をネガティブなこととは思っていなかったのですが、あるとき、「そうか、結婚したら弟の面倒までみないといけなくなるのか…」と言われて、初めて、弟って面倒なのか、病気の弟がいることはマイナスのことなのか、と、ショックを受けて。私は弟と暮らすから、もう結婚はできないんだって思っていました。さらに病気が遺伝性だということも本で読んで知って、私が産む子どもも同じ病気かもしれない、病気の子どもを受け入れてくれるパートナーや親戚がいるわけがない(弟の病気がわかった時、親戚の反応がよくなかったので…)、だから一人で生きていこうと思っていました。
(※遺伝について、肥大型心筋症は、当時は2万人に1人の重大な病気と聞いていましたが、現在は500人に1人くらい、10年生存率95%の病気になっていて、過剰に気にする必要はないといわれています)
 
 今の夫には、交際を申し込んでもらったときに、こういう事情で誰ともつきあえないんだと説明しました。そうしたら、弟も一緒に暮らしたいと思っているの?と聞かれて、目から鱗が落ちて。もし弟が望むなら3人で一緒に住んでもいいし、隣の家に住むのでもいい。子どものことが気になるなら遺伝カウンセリングに行ってもいいし、持てないなら持てないでいいって言われて、本当によくできた夫なのですが、だからこそ私の人生に巻き込んでいいのか、自分自身の罪悪感とのたたかいで、付き合うまで長い時間がかかりました。その後、大人のきょうだいたちと出会うようになって、きょうだいで結婚している人もたくさんいて、破談になった経験のある人もいれば、あたたかく迎え入れられた人もいて、きょうだいがさまざまな人生を送っていることを知りました。さまざまな人生があるのは当たり前のことと言われるかもしれませんが、当時はきょうだいとしてどう生きるかを相談できる人が周りにいなくて思い詰めていたので、もっと早くにいろんな生き方、考え方にふれられる機会があったらよかったと感じています。

弟を亡くした喪失感



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NPO法人しぶたねが発行するきょうだいさんのための本。1冊は病気の兄弟姉妹を亡くした子どものための本となっている。



 弟が亡くなったのは17歳、私が21歳のときでした。すごく悲しくて辛かったんですけど、お葬式のときに周りの人から「お姉ちゃんは泣いてないでお母さんを支えてあげてね」と次々に言われて、善意で言ってくれているのはよくわかるのですが、泣けなくなってしまった。自分は親じゃなくてきょうだいだから悲しむ資格はない、でも弟のことを思うと辛くて涙が出てしまうからなるべく考えないように気持ちに蓋をすることにしました。そうして過ごしていたら、ある日突然、吐き気とめまいで動けなくなることが何度か続いて電車に乗れなくなってしまって。病院に行ったらパニック障害だと診断されて、「気持ちに蓋をしていたらダメなのかもしれない」と気づきました。でもどうやって開けていいのかわからなくて、最初は遺族会に参加したんです。行ってみると、私以外は子どもを亡くした親御さんで、親の悲しみの大きさに圧倒されたり、「きょうだいなのに来たの?」と言われてしまって、ここは自分の居場所じゃないんだなと感じました。でも、自分と同じ立場の人と喋りたかった。だから「きょうだい 亡くす 会」みたいなワードでネット検索をしたり色々調べたりするうちにドナルド・マイヤーさんというアメリカできょうだい支援をしている方のサイトにたどり着きました。そこでアメリカのメーリングリストに入って、日本の大人向けのきょうだい会に出会って、それでやっと、遺族としてではなくて、 ”きょうだい” として辛かったことを整理しないと先に進めないとわかって、きょうだいとしての自分と向き合うことを始めました。その整理がひと段落して、弟を亡くした喪失感と向き合えるようになるまでに15年くらいかかってしまいました。

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